弘法大師さんへご挨拶 東寺 と 高野山奥の院

四国八十八箇寺と呼ばれる弘法大師が開創した四国霊場。弘法大師は讃岐国で生まれ、都で学ばれたそう。その後も各地で修行を続けられ22歳で空海とあらためられた。そして唐に渡られ真言密教を受けつがれた。日本に戻られ真言密教を広められ、42歳のとき阿波、土佐、伊予、讃岐の四ヶ国を遍歴され、お寺やお堂を建立し、四国八十八ヶ所の元になる数々の霊場を開かれた。

今の自分よりも年下なのに、なんと立派な方であられようか。比べることさえ許されない。

東京国立博物館所蔵 弘法大師像 絹本着色 鎌倉時代・14世紀

ご詠歌に「身は高野、心は東寺に納めおく」というのがあるそうだ。高野山奥の院にご入定なされたが、心は東寺にある、という歌だ。東寺で出発の挨拶をし、高野山奥の院で巡礼終了のお礼をする。そんなふうに伝えられている。

まずは東寺なのか。

世界遺産 東寺(尊王護国寺)へ

東寺は教王護国寺が正式名称。古都京都の文化財という登録名で16か所の寺社と1か所の城郭で構成される世界遺産の1つである。世界遺産は大好きだ。

よし、東寺へ行こう。

どうせ行くなら西国街道で行こう。近所には古代からの旧西国街道が通っている。歴史街道というやつだ。これまでも自転車で自宅の伊丹から西へ旧西国街道を神戸まで行ったことはあるが、東へは大阪の茨木にある椿の本陣までしかない。

自宅から京都までは片道およそ40km。 貧弱な足腰だが、きょろきょろと街道をポタリングしながらでも3時間もあれば着けるだろう。京都で早めの昼メシを食って帰っても昼過ぎには戻れるな。

旧西国街道の沿道には歴史街道だけあって名所旧跡社寺城郭などがたくさんある。生活感にあふれる通りには旧家や古民家が点在し昔の雰囲気を残している。いつもの寄り道癖が出てしまい、当初の計画から大幅に遅れる事となる。

~ 西国街道 ~

西国街道は古くは奈良や京都といった都と西国との間の官人の往来や中国大陸や朝鮮半島からの使者の来訪、都造営の資材運搬、租庸調といった納税に利用されていた。

戦国時代では軍の移動、豊臣秀吉の朝鮮出兵、西国の大名の参勤交代などでこの道が使われていた。

時代とともに一般民衆も物見遊山で利用するようになり、物資の運搬、租税の徴収、文化交流など重要な役割を持つ街道であった。徳川幕府は江戸を中心とする世の中を構築したため、交通体系も江戸中心となり東西の本街道は東海道と大坂を起点とする中国道となった。そのため西国街道は格下げされ脇街道となってしまうが、現実的には大坂や京都を経由せずに最短ルートで江戸や東国に向かえるため、参勤交代や一般の人々も大いに利用されていた。

幕末となるとさらに往来が激しくなり、禁門の変(蛤御門の変)や鳥羽伏見の戦など軍事的な重要性が高まっていく。

しかし明治期となると参勤交代が無くなり交通量が激減する。また、文明開化によって乗合馬車や人力車、そして自動車や鉄道の開通により交通手段が大きく変わっていく。

ついには交通量の増大により街道に並行し国道171号線が開通し、西国街道の役割は生活道路となった。

途切れ途切れとなった街道沿いには田畑が姿を消し新興住宅が建ち並んでいる。しかし沿道には旧家や古民家、寺社仏閣、道標が点在しており所々に昔の雰囲気を残している。

東寺への自転車旅は、↑クリック。 お急ぎの方は「その5」へどうぞ。

世界遺産 高野山へも行っとこか

東寺で買った納経帳は、東寺から始まり、次は高野山奥の院となっている。その次が一番札所霊山寺である。高野山奥の院には結願の後にお礼参りにと思っていたが、弘法大師さんが今も霊廟にて弾定を続けられているという事を知り参拝しようと思う。

偶然にも、和歌山の橋本市へ仕事に出掛けなければならなくなった。ついで参りとなるが、気持ちが高ぶり、高野山へ足を延ばそうと密かに計画した。橋本市での午前中の仕事を終え、急ぎ九度山を目指す。今回は車で行くが、四国八十八箇所を結願したあと、お礼参りの暁には自転車で行くことを心に誓う。

世界文化遺産に登録された、「紀伊山地の霊場と参詣道」は、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の3つの霊場と、「大峯奥駈道」、「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」、「高野山町石道」の参詣道で構成されている。これは「自然と人間の営みによって形成された景観」という、一般的な文化財の枠組み越えた幅広い内容を含んでいる。古くより神々が宿る場所として崇拝され、山岳修行の場所となった山々や、昔から今なお受け継がれている修験の文化や、門前町の風情を残す町並み、参詣道を徒歩で進み行き自然と接触を重ねること、御神木として献上され保護されてきた木々、それらが文化的景観として評価された。

高野山奥の院への旅は、↑クリック。