世界遺産東寺へ 西国街道その2

西国街道は古くは奈良や京都といった都と西国との間の官人の往来や中国大陸や朝鮮半島からの使者の来訪、都造営の資材運搬、租庸調といった納税に利用されていた。戦国時代では軍の移動、豊臣秀吉の朝鮮出兵、西国の大名の参勤交代などでこの道が使われていた。時代とともに一般民衆も物見遊山で利用するようになり、物資の運搬、租税の徴収、文化交流など重要な役割を持つ街道であった。徳川幕府は江戸を中心とする世の中を構築したため、交通体系も江戸中心となり東西の本街道は東海道と大坂を起点とする中国道となった。そのため西国街道は格下げされ脇街道となってしまうが、現実的には大坂や京都を経由せずに最短ルートで江戸や東国に向かえるため、参勤交代や一般の人々も大いに利用されていた。幕末となるとさらに往来が激しくなり、禁門の変(蛤御門の変)や鳥羽伏見の戦など軍事的な重要性が高まっていく。しかし明治期となると参勤交代が無くなり交通量が激減する。また、文明開化によって乗合馬車や人力車、そして自動車や鉄道の開通により交通手段が大きく変わっていく。ついには交通量の増大により街道に並行し国道171号線が開通し、西国街道の役割は生活道路となった。途切れ途切れとなった街道沿いには田畑が姿を消し新興住宅が建ち並んでいる。しかし沿道には旧家や古民家、寺社仏閣、道標が点在しており所々に昔の雰囲気を残している。

大阪府箕面市牧落 ~ 大阪府箕面市今宮

グーグルマップ。南北に新御堂筋が走り、住宅や企業団地が広がっている。この付近には今も田畑が残っている。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 明治42年測図の地図。 この時代、山あいの谷間を西国街道は走るが、辺りは農村風景が広がり小規模の集落が点在している。

牧落の交差点を斜めに横切ると、街道は171号線の南側を並行する。この辺りは171号線から一筋入るだけだが、田畑が広がる風景を見せてくれる。

萱野では昔ながらの古い街並みが残り、農家や旧家の家屋が点在している。

そして萱野三平邸跡。萱野三平は赤穂浪士四十七士の48番目の義士である。仇討ちに加わる覚悟をしたが父親の反対にあい自害したそうだ。邸宅跡は入館無料だが午前10時にならないと開かないので今日は入れないが以前にも見学したことがある。長屋門と土塀が保存され涓泉亭という資料展示記念館がある。豪族といえど当時の質素な暮らしが垣間見える。

萱野三平が自害した長屋門の部屋には、なんとなく生々しい雰囲が漂っている。

涓泉亭資料展示記念館には、瀬川半町立会本陣に大名が宿泊する際に掲げられていた宿札が展示されている。

萱野三平邸跡を後に東へ進んで行くが、区画整理されていて進む道を見失う。どうやら新御堂筋建設の時の区画整理により、この一帯は街道が消滅しているようだ。一旦171号線を北へ横断し、新御堂筋の高架をくぐる。この付近はベンツ、ポルシェ、BMW、アウディ、そしてアメ車と外車のショールームが目白押し。

ビソラショッピングモールの南側に痕跡はないかと、ふと気になり寄り道する。そこは中央に池のある公園になっていた。公園の端に立ち消えた旧西国街道のらしき道があった。なにやら立て札と道標がある。箕面山への道標を新御堂筋建設のときに移設したらしい。

西宿西交差点で171号線を斜めに横切り西宿に進む。西宿も田畑が広がり、農家旧家が点在している日本の原風景のような田舎道だ。その先は森の中に進むような景色の道になる。

森の中に進んで行くと今宮の集落だ。集落の雰囲気に誘われ、横道にそれる。集落内をぐるり回ってみたが、旧家、農家の家々の配置や、道の迷路具合、庭先の植え込みや花、ため池など、なんだか懐かしくうれしくなる。集落内を三回ほど周ってしまった。この付近はよく通るが、このような集落であったことは予想外であった。

阪府箕面市今宮 ~ 大阪府茨木市道祖本

グーグルマップ。 田畑も山も宅地化された。ゴルフ場や公園に残る池が唯一当時を偲ばせる。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 明治41年測図の地図。 この時代、ますます山あいの谷間を西国街道は走る。辺りは山間部の農村風景が広がり小規模の集落が点在している。

しばらく行くと箕面墓地公園石積みの壁が現れる。その存在は知っていたが、墓地に足を踏み入れたことは無かった。ふと気になり墓場に入ってみて驚いた。180度見渡す限り墓場である。ここまで広いと雄大すぎて怖くもなんともない。水汲み場で顔を洗いリフレッシュし先に進む。

左手に、新家の大鳥居が現れる。勝尾寺への表参道とのこと。勝尾寺は西国三十三所の二十三番札所。お寺は4km先の山の中である。名前の通り勝ち運のお寺。ギャンブラー御用達か。

ここからしばらく小野原の昔ながらのきれいな町並みが続く。旧家や豪邸が点在していて旧街道の雰囲気が残っている。

小野原の終端には楠水龍王井戸跡。楠木正成候が水を飲んだといわれている。

小野原を過ぎるとしばらく新興住宅地となり、上空に大阪モノレールの豊川駅が見えてくる。

道祖本は日本の原風景のような懐かしさを感じる田園風景が目に眩しい。山をバックに農家の家屋や蔵が点在し手前に田んぼが広がっている。この背景の山並みは、女子プロゴルフトーナメントも行なわれていた茨木カンツリーゴルフ場。こちら側から見ると未だに丘陵風景として残っている。ゴルフ場でなければ周辺のようにとっくに団地か新興住宅地、はたまた企業団地に造成されていたであろう。昔の千里丘陵を想像できる貴重な風景である。

右手に燈籠が建ち春日神社とある。小橋の向こうに鳥居があり森の中に石段が続いている。何だか気になり立ち寄ってみる。橋の手前に自転車を置き、歩いて橋を渡り一礼し鳥居をくぐる。20段ほどの石段を上ると森の奥に参道が続いているが、緩やかに右に曲がっていて先が見えない。先が見えない不安と木々に覆われ薄暗く何だか湿気ているため背中がゾワゾワする。

やがて木々に包まれた山門が見えてくる。

山門のその奥に二頭の狛犬が迎えてくれた。社殿は小ぶりだが苔むした石垣と木々に包まれた雰囲気はとても神秘的だ。大阪にもこんな場所が残っていることに驚いたが、しかしこの森はゴルフ場なんだよなと帰りの参道で現実を噛み締める。