世界遺産東寺へ 西国街道その3

西国街道は古くは奈良や京都といった都と西国との間の官人の往来や中国大陸や朝鮮半島からの使者の来訪、都造営の資材運搬、租庸調といった納税に利用されていた。戦国時代では軍の移動、豊臣秀吉の朝鮮出兵、西国の大名の参勤交代などでこの道が使われていた。時代とともに一般民衆も物見遊山で利用するようになり、物資の運搬、租税の徴収、文化交流など重要な役割を持つ街道であった。徳川幕府は江戸を中心とする世の中を構築したため、交通体系も江戸中心となり東西の本街道は東海道と大坂を起点とする中国道となった。そのため西国街道は格下げされ脇街道となってしまうが、現実的には大坂や京都を経由せずに最短ルートで江戸や東国に向かえるため、参勤交代や一般の人々も大いに利用されていた。幕末となるとさらに往来が激しくなり、禁門の変(蛤御門の変)や鳥羽伏見の戦など軍事的な重要性が高まっていく。しかし明治期となると参勤交代が無くなり交通量が激減する。また、文明開化によって乗合馬車や人力車、そして自動車や鉄道の開通により交通手段が大きく変わっていく。ついには交通量の増大により街道に並行し国道171号線が開通し、西国街道の役割は生活道路となった。途切れ途切れとなった街道沿いには田畑が姿を消し新興住宅が建ち並んでいる。しかし沿道には旧家や古民家、寺社仏閣、道標が点在しており所々に昔の雰囲気を残している。

大阪府茨木市郡山 ~ 大阪府高槻市宮田

グーグルマップ。工場や住宅が建ち並びぶが、田畑も多く残っている。斜めに走るのは名神高速道路。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 明治42年測図の地図

宿川原を抜けると郡山宿本陣跡。椿の本陣と呼ばれ、享保6年築の二重瓦の立派な建物である。

旧西国街道で本陣が残っているのはここだけ。現在も当主が住まわれ、大切に守られている。内部を見学することができるが、今の時間は開いていない。

街道は椿の本陣跡の先で171号線と交差し、ここからは国道の北側を進む。坂を上がった川沿いの土手からは開けた景色が目に飛び込んできた。遠くの山並みまで見渡せる。

土手を下り、中河原には旧西国街道と旧亀岡街道との交差があり、小さな公園の一角に新しい道標が建っている。

茨木川を渡ると耳原。そして名神高速が見えてきた。名神沿いに登ると土手に出た。川沿いに北向きにしか行けない。どうやら間違えたことに気付く。引き返し名神の高架をくぐり、安威川を渡る。この付近にも蔵のある旧家や虫籠窓の家屋が点在している。

その先、右手にだだっ広い空き地が広がっている。遠くに見えている空き地の端まで500m以上はありそう。工場か何かの跡地だろうと思ったが、やはり東芝の大阪工場跡地と後でわかる。冷蔵庫などいわゆる白物家電を開発設計製造していたが、開発設計は愛知工場に集約され製造は中国に移し2008年に閉鎖している。大阪の経済の地盤沈下は深刻だ。この空き地沿いの登り坂は雲見坂と呼ばれている。ジャージ姿の女子中学生集団が黄色い声で坂を歩いている脇を追い越す。

雲見坂の坂道を登りきると左側の住宅の合間から、こんもりとした山が見えた。太田茶臼山古墳と呼ばれる26代継体天皇の御陵だ。前方後円墳だが、ここから見ると小山にしか見えない。

大阪府高槻市宮田 ~ 大阪府高槻市安満

グーグルマップ。高槻駅付近には巨大ビルが建ち、工場や住宅で溢れている。もはや緑が残るのは古墳と神社仏閣のみ。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 明治42年測図の地図

藍野大学の横を通り、さらに住宅街を進むが、どこかで街道を外れてしまったようで袋小路に突っ込んでしまった。玄関先から若い奥さんが怪訝そうな顔でこちらを見ている。Uターンし道を外れたと思わしきポイントまで戻る。斜め左に進むべき辻を直進していたようだ。

道路の右側に細い川が現れ、しばらく川沿いの道を進む。普通の住宅街がかなり続くが、芥川を渡るころには旧家が目に付くようになる。やがて歴史を感じる酒屋や商店の先に小さな祠が見えた。芥川一里塚と刻まれた石碑が立ってある。この辺りは芥川宿という宿場があった。祠のとなりは、ちょうちんが印象的な焼肉専門店の五島屋。祠の前を左に曲がり、右手に芥川商店街を見ながらその先を右に曲がる。

この辺りはJR高槻駅の北側で古くからの家が多く人通りも多いが、残念ながら道路の拡幅工事のため多くが立ち退きつつある。左手に上宮天満宮の大きな鳥居が現れ、ここから先は市街地化した歩道もある2車線道路となる。

大阪府高槻市安満 ~ 大阪府三島郡島本町青葉

グーグルマップ。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 明治42年測図の地図

JR高槻駅付近は、西武百貨店、愛仁会高槻病院、高層マンション、関西大学と巨大な建物が続き、道幅も広く旧街道の面影はどこにもないが、やがて道幅が狭まり旧家も目に付くようになる。JRの車両基地を右に見ながら住宅街を進む。

檜尾川を渡るため、緩やかな坂をのぼると急に周囲の趣が変わった。左から山が迫って来ていて、山村風景になった。橋を渡り先へ進むと益々山が迫り、街道の左側が高く右側が低い山裾を街道は行く。右側の家々は、路面よりも低いところに建っている。山裾沿いの旧家の残る街道を進む。

右にJR東海道線が現れた。しばらく線路沿いを走るが、目線の高さほどに線路があり、間近を電車に追い越されると迫力がある。振り向き電車が来るのを待ってみた。緩やかに線路は左にカーブしており、かつ目線よりも高いので電車の撮影にはよいポイントだ。振り向きしばし撮影を試みる。列車の往来が多く短時間で多くの列車を撮影できたが、腕が悪くお粗末な写真にがっかりする。

東海道線をくぐるトンネルが現れた。

トンネルの途中で作りと形が違う。下り側のレンガアーチは複線時代のトンネルで、上り側のコンクリート部分は複々線化する際に付け足したのだろう。しばし眺める。

下り側は石積みの土台にレンガアーチ

大阪府三島郡島本町青葉 ~ 京都府乙訓群大山崎町調子

グーグルマップ。大山崎付近は山と山の間を淀川へと名前を変える前の桂川、宇治川、木津川が流れ、そのわずかな隙間に名神高速、東海道本線、阪急京都線、西国街道、国道171号線、京街道、京阪本線が走っている。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 明治42年測図の地図

島本町に入り町並みを行く。島本町立歴史文化資料館と書かれた立派な和風の建物を過ぎ、JR島本駅前でローソンを見つける。そういえば朝飯を食っていない。さらに時計を見て愕然。すでに東寺到着予定の3時間を越えている。あちこち寄り道が多すぎた。

ローソンでおにぎりとアクエリそしてきのこの山をゲット。島本駅横の桜井駅跡史跡公園に移動し、しばし休憩。近くのベンチにはフルスペックのチャリダーが休憩している。やたらと石碑の多い公園内では、お爺とお婆が、楽しそうにゲートボールをしている。それを見ながらおにぎりを食う。でもよく見かけるゲートボールとは違うようだ。パットゴルフのようにコースを回っているし、打数を勘定している。何だろう。近くに居るお婆に聞くと、グラウンドゴルフとの事。そういえばレイクフォレストで1泊2日のゴルフ2ラウンド宿泊パックなのに、超格安の広告を見て予約し、間際でグラウンドゴルフと気付き、キャンセルをした事を思い出す。これがグラウンドゴルフだったのか。けっこう楽しそうだ。まだ午前中だが降り注ぐ真夏の太陽は容赦ない。すでにTシャツは汗だくだ。この公園は木々が多く日陰をゲットできている。きのこの山に取り掛かったときに、フルスペックのチャリダーが出発。きのこの山を切り上げ、重い腰を上げて後を追うように出発する。この暑さでは、きのこの山、溶けるだろうな。

ここからも新旧家屋が入り混じる街道筋の様相を見せる。左に踏切があり、その向こうはサントリーの山崎工場。大きな蒸留器のモニュメントが見える。

やがて右に関戸明神の社があり、突き当たりに離宮八幡宮がある。離宮八幡宮を避けるように街道は続く。離宮八幡宮で寄り道しているあいだに、フルスペックのチャリダーは見えなくなっていた。

JR山崎駅、阪急大山崎駅を過ぎると新幹線の高架下を並走する。が、直ぐに離れ、この先は2車線化され歩道もある幹線道路の様相となっている。大山崎町役場を過ぎ、名神の高架を過ぎると、再び旧街道の様相を取り戻す。しかしそれもつかの間、JRのトンネルを抜けるとまた2車線化される。そしてダメ押しは、新しくできた京都縦貫道の高架である。高架手前から造成され、街道の面影はまったくない。便利になるのは良い事だが、歴史や文化が消滅されていくのは、もの悲しい。

しかし調子八角の交差点からは、街道が残っている。この交差点は、幾筋もの道が合流する複雑な交差点で、旧街道がどれなのか分かり難い。間違えかけたが何とか進む。