世界遺産東寺へ 西国街道その5

西国街道は古くは奈良や京都といった都と西国との間の官人の往来や中国大陸や朝鮮半島からの使者の来訪、都造営の資材運搬、租庸調といった納税に利用されていた。戦国時代では軍の移動、豊臣秀吉の朝鮮出兵、西国の大名の参勤交代などでこの道が使われていた。時代とともに一般民衆も物見遊山で利用するようになり、物資の運搬、租税の徴収、文化交流など重要な役割を持つ街道であった。徳川幕府は江戸を中心とする世の中を構築したため、交通体系も江戸中心となり東西の本街道は東海道と大坂を起点とする中国道となった。そのため西国街道は格下げされ脇街道となってしまうが、現実的には大坂や京都を経由せずに最短ルートで江戸や東国に向かえるため、参勤交代や一般の人々も大いに利用されていた。幕末となるとさらに往来が激しくなり、禁門の変(蛤御門の変)や鳥羽伏見の戦など軍事的な重要性が高まっていく。しかし明治期となると参勤交代が無くなり交通量が激減する。また、文明開化によって乗合馬車や人力車、そして自動車や鉄道の開通により交通手段が大きく変わっていく。ついには交通量の増大により街道に並行し国道171号線が開通し、西国街道の役割は生活道路となった。途切れ途切れとなった街道沿いには田畑が姿を消し新興住宅が建ち並んでいる。しかし沿道には旧家や古民家、寺社仏閣、道標が点在しており所々に昔の雰囲気を残している。

京都府向日市寺戸 ~ 京都市南区吉祥院

グーグルマップ。 いよいよ東寺も近い。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 明治42年測図の地図。 当時は西国街道沿いに集落があったわけではなさそうだ。

旧西国街道は旧来、向日町駅の辺りでJR東海道線を横切っていたはずである。しかしこの先は線路に寸断されている。駅の反対側には、駅の中を通っても行けないようだ。反対側に改札口が無いようだ。

駅を過ぎ400mほど北へ行った辺りに線路をまたぐ道路があり、坂道を登る覚悟を決めたとき、右手に地下道を見つけた。自転車も通れる。地下道を出て東にそのまま新幹線の高架付近まで走る。地図ではこのまま旧西国街道に続いているが、どうも町並みの雰囲気が違う気がした。

一旦JR向日町駅の東側まで戻ってみた。行き止まりになっていて、こちら側に駅の入り口はやはり無い。柵の向こうにホームが見え電車を待つ人がポツポツと佇んでいる。その横を新快速が甲高い音をたてて走り抜けていく。

あらためて東に進んでみるが、さっきの通りと似たような雰囲気であった。新幹線の高架をくぐり、その先の道標を左に折れ直進すると、先ほどのルートと合流する。下久世付近は昔からの集落だったため趣がある。

右に折れ、住宅街を北東に進む。しばらく行くと、桂川の土手が現われる。土手の草の緑がまばゆい。土手沿いの道ではなく、なんとなく左側の細い道を選ぶ。旧家があり雰囲気が良いので正解だったと喜ぶ。

が、すぐに国道171号線のコンクリート塀が現われた。

スロープを登り、国道171号線の久世橋で桂川を渡る。桂川から吹く風がやや涼しく、橋の上でしばらく眺める。ゴールの東寺はもうすぐだ。久世橋を渡ると旧西国街道は橋のたもとの反対車線から川沿いに折れている。しかし久世橋の橋詰付近には中央分離帯があり横断できない。その先も交通量が多く、横断するにはかなりの覚悟と勇気がいる。この先の石原交差点まで行くことにするが、陸橋はあるものの自転車道が無く撃沈。横断歩道を渡るのでは、行きたい方角に進めない。自転車キラーの交差点である。仕方が無いので自転車を担いで陸橋を登ることにする。かなり汗だくである。

ようやく久世橋のたもとまで戻り、旧西国街道に再会した。土手沿いを行く道だが、無理して来るほどの道ではなかった。

京都市南区吉祥院 ~ 東寺

グーグルマップ。 京都といえど近代化が進み、現代住宅やビルが目立つ。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 明治42年測図の地図。 この時代、東寺の辺りが京の街への南西の入口だった。

171号線を斜めに横切り、吉祥院の町並みを抜けるが、京都らしさはまったく無い。まぁこの辺りは昔は吉祥院村という田畑が広がっていた地域だからしょうがない。

再び171号線に合流する。もう東寺は目の前であるが、ゴールが遠目に見えてくるのでは感動が薄い気がしたので、171号線の1本北の通りを行き、突然東寺が目の前に現われるようにしたい。そう考えて細い住宅街を進むと遠目に東寺の塀が見えてきた。

まもなく東寺の横に出るが塀しかない。左手に門が見えるが封鎖されているようだ。

塀沿いを南下すると堀があり五重塔も見えた。ゴールはあっけなく感動的でない。堀の外から南大門と五重塔を写真に収める。観光客がすごく多く外人さんのバックパッカーもいる。しかし汗だくなのは、俺ぐらいである。南大門から入りたいが、門の前に自転車を置くと目立ちすぎるし迷惑だ。少し戻り歩道橋の階段裏に自転車を置く。そして歩いて南大門に向かった。

南大門に立ち一礼する。

グーグルマップで上から見た東寺。境内の東半分は有料区域。

東寺は正式には教王護国寺といい、真言宗の根本道場で東寺真言宗の総本山。新幹線で京都に到着するときに見える、高さ55mの五重塔が京都らしさを彷彿とする。もちろん世界遺産である。

南大門から入るが、五重塔や金堂、講堂は拝観料が必要な有料エリアだ。じゃりじゃりと音を立てながら金堂、講堂を横目に食堂(じきどう)へと向かう。

食堂(じきどう)と北大門の間に手水があるので手と口を清める。

食堂(じきどう)には四国巡礼の案内板がある。

食堂脇から拝観料を納め、有料エリアに入場する。

まずは庭園を歩き、五重塔まで行った。

東寺の本堂が金堂。延暦15年(西暦796年)に東寺が創建された際、最初に工事がはじめられた。しかし文明18年(西暦1486年)に焼失し、関ヶ原の合戦後に落慶されたのがこの建物。

金堂の中に入ると薄暗い広大な空間に、高さ10mを越える薬師如来坐像とその両脇に日光菩薩像と月光菩薩像があり、静寂な空気に満たされていて気持ちがとても落ち着く。四国八十八箇所を回る事と無事に結願できる事を祈願し、しばらく腰掛けていたが服が汗で気持ち悪いので外に出る。(画像は東寺ホームページより)

続いて講堂を拝観する。弘仁14年(西暦823年)に着工し、承和6年(西暦839年)に完成したが、金堂と共に文明18年(西暦1486年)に焼失した。しかし講堂は最優先で再建され焼失のわずか5年後に完成した。重要文化財に指定され、延徳3年(西暦1491年)完成の入母屋造本瓦葺。

講堂はたくさんの仏像が配置され立体的に表現した曼荼羅の世界が広がっている。こちらは躍動感に溢れた雰囲気でしばらく見入ってしまった。が、一人旅の女子も多く邪念が発動してくるので長居はしなかった。(画像は東寺パンフレットより)

立体曼荼羅(画像は東寺ホームページより)

有料エリアを出て食堂(じきどう)に入る。

食堂の中にある売店で、四国八十八箇所用の納経帳2冊と、へんろみち保存協力会発行の地図を見つけ購入した。さすが東寺で売っている四国八十八箇所用の納経帳は東寺が堂々の1ページ目である。納経帳は、1冊は自分用、もう1冊は結願後に両親にあげようと思い2冊購入した。

東寺で購入した納経帳。

ご朱印を頂く。納経代300円なり。

教王護国寺(東寺)のご朱印。ご朱印というものを初めて頂いたが、めちゃめちゃかっこいい。

御影堂は弘法大師の住房であった建物で自由にお参りができるが、今日は外から拝観するに留める。四国八十八箇所を巡った後のお礼参りの際は上がらせて頂こう。

太子堂。四国八十八箇所巡礼の際は必ずここ太子堂をお参りしなければならない。四国巡礼が無事に結願できますように、などとご挨拶。お大師様と同行二人の旅が今ここから始まる。

今度は北大門から一礼して外に出た。

東寺をぐるりと周り自転車に戻ろうと歩いていくと、東側に慶賀門が現れた。再び境内に入る。

結局、南大門まで境内を歩き、南大門から東寺を後にする。

あとがき:HDDエラーにより画像がかなり無くなってしまった。残念!そのため違う日にポタリングした際の画像を多く使用している。季節感が合わない画像はご容赦下さい。