宇津ノ谷峠から丸子宿、府中宿

一泊二日で東海道五拾三次の旅。今日は掛川から出発し岡部宿へとやって来た。

岡部宿から東海道の難所のひとつ宇津ノ谷峠を目指す。

宇津ノ谷峠を越えるのは、岡部宿の案内所のおっちゃんに薦められた明治のトンネルを通るルートで行く。宇津ノ谷峠を行くルートは、平安時代の道で蔦の細道と呼ばれる古道、旧東海道の峠越え、明治9年に日本初の有料トンネルとして開通した宇津谷隧道、大正15年に着工し昭和5年に開通した宇津ノ谷隧道(昭和第一トンネル)、昭和32年に開通した新宇津ノ谷隧道(昭和第二トンネル)、そして平成10年に開通した平成宇津ノ谷トンネルと、新旧のルート全て通行可能な状態で存在している。

だらだらと登り坂が続く。

直進すると大正のトンネルルート。明治のトンネルは脇道に逸れる。上から降りてきた家族連れに自転車でも行けそうかと聞くと、脚力しだいだなと言われる。ダメなら降りてきな!、だと。俺の脚をなめんなよ。なんてね。

ほどなくトンネルが見えてきた。

宇津谷隧道。明治九年開通、長さ六十八丈二尺(230m)、工費三萬五千円、人夫延べ21万人。

明治29年(1896年)火災により焼失したが、明治37年(1904年)に修復・改修し再開通した。

トンネルを抜ける頃には、かいた汗で体が冷える。

トンネルを抜けると宇津ノ谷の集落が望める。

山越えの旧東海道が残っている。岡部宿の案内所の気のイイおっちゃんに、自転車は明治トンネルがお勧めだよと、教えてもらった。そのため岡部側から旧東海道を通らなかったので蔦の細道や歌川広重の岡部の場面に出くわせなかった。

ということで丸子側から歩いて登ってみる。江戸時代には参勤交代の諸大名も往来した重要な交通路。

この峠道には地蔵堂、馬頭観音。雁山碑、ひげ題目碑か残されている。この先は木組みの階段に整備され急坂で峠となる。頂上まで近そうだが、先を急ぐためUターンし宇津ノ谷の集落へ戻る。

岡部 宇津之山

歌川広重 東海道五拾三次 岡部 宇津之山 保永堂版

伊勢物語の挿絵に出てくる蔦の細道のイメージ。柴や薪を背負った地元の人々と旅人が、曲がりくねる谷川に沿った山道を行く。渓流の脇に生えたカエデが紅葉し秋の景色として画かれている。

広重の岡部宿の画は岡部側から宇津ノ谷峠を目指す坂道。この坂道は丸子宿側から峠を目指す坂道。まあこれでヨシとする。

峠道から宇津ノ谷の集落へ続くこの階段も、江戸時代には日本の大動脈だったンだろう。

階段は改修されているが、とても風情のある町並み。

魚屋。

松屋。

詰め放題らしい。

壽べ家。

宇津ノ谷の集落もそろそろ終わる。

丸子川沿いにつづく旧街道。

谷間につづく旧街道は上下4車線の立派な国道1号に飲み込まれているが、一部は残っている。

丸子宿

上段:今昔マップon the web 明治28年測図 明治42年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、丸子宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋24軒、宿内家数211軒、人口795人と東海道で最小の宿場であった。江戸日本橋まで、あと46里4町45間。

名物とろろ汁の丁子屋。たくさんのお客で賑わっている。茅葺屋根の古民家風な建物が印象的だが、江戸・明治・大正・昭和と時代を重ねた幾つかの古民家の集合体。駐車場で案内をしているおっちゃんも自転車好き。伊豆一周とかするらしい。

名物とろろ汁。丸子という基本の定食を頼む。1,440円なり。ご飯はお櫃にいっぱい入っていて食べきれない。でもお代わり自由とな。

地元の提携農家が育てた自然薯のとろろ汁。ズルズル~とススリながら食べる。

鞠子 名物茶店

歌川広重 東海道五拾三次 鞠子 名物茶店 保永堂版

東海道中膝栗毛の主人公弥次郎兵衛と喜多八が鞠子の茶屋でとろろ汁を注文したところ、茶屋の女房が乳飲み子を背負って出てくるという一節がモデル。「うめ若菜丸子の宿のとろろ汁」と松尾芭蕉が詠んだ俳句をヒントに、茶店の右には梅の木が画かれている。屋根の上には鳥がとまり、のどかな雰囲気を感じる。

さすが、広重の画によせて営業しているだけの事はある。電柱、電線、横断歩道が無ければいいのに。

丸子宿脇本陣跡。

旧東海道は丸子を抜けて手越原の交差点で国道1号線から外れる。すると正面に富士山!おお~富士山!富士山だ~!

やっぱり富士山はデカイ!

府中宿

上段:今昔マップon the web 明治28年測図 明治42年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、府中宿は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒、家数3,673軒、人口1万4,071人。東海道では大津宿に次いで2番目に人口の多い宿場町。駿河国府のあった所で駿府ともいう。安倍川近くの安倍川町は遊女の町で、江戸に移って吉原をおこした。江戸日本橋まで、あと44里24町45間。

安倍川の河川敷から望む富士山。どどーんと富士山四連荘。

毎日富士山を見られるなんて、静岡の人はなんて贅沢なんだろう。

静岡市から富士山まで50kmも離れているのにこのデカさ。

そういや10年ほど前に登ったなぁ。浅間神社から剣ヶ峰(3,776m地点)へのラストのアプローチは大変だった気がする。頭が痛いのにパンパンに膨らんだオニギリせんべいとぬるいビールで乾杯したっけ。

府中 安倍川

歌川広重 東海道五拾三次 府中 安倍川 保永堂版

駿府城の城下町にある府中宿は安倍川餅と幕府公認の遊郭二丁目で知られていた。広重の画は宿場の西はずれを流れる安倍川の風景。女たちの一行が屈強な人足たちに輦台や肩車で担がれ渡されている。対岸からは馬の背に荷を乗せた男たちが渡ってくる。さらに向こうには状箱を濡らさないように頭上に高く捧げ持った飛脚や、客の荷物を頭に載せた人足と、その荷物の主が裸で人足に導かれて徒歩で渡っている。川向こうの山は賤機山だとすると方角が合わない。

安倍川を渡り、府中宿側から川を望む。広重の画ほどに水量はない。これなら歩いて渡れそう。

 

安倍川にかかる安倍川橋を渡ると、あべ川もちを売る「かごや」。店の中で食べられる。近くには文化元年(1804年)創業の「石部屋」もある。安倍川餅の名付け親は徳川家康らしい。

静岡市内には旧街道や府中宿を感じさせるものは何も無い。幕府公認の遊郭二丁目も見当たらない。

旧東海道は歩行者天国。自転車は押して通行しなければならぬ。こっそり乗って走ったろうと思ったが、婦警さんがガッチリ取締り中。

呉服町。めちゃめちゃ賑わっている。

駿府城 坤櫓(ひつじさるやぐら)。二ノ丸の南西の方角に位置する櫓で、坤(ひつじさる)という名は、築城当時には方位に干支が用いられていて、北を子(ね)として時計回りに割り当て、南西の方角は未(ひつじ)と申(さる)の間であるため、坤(ひつじさる)と呼んだことに由来している。

秋には、「葵舟 秋の陣~駿府堀めぐり~」という中堀の遊覧航行が行われていた。

1989年(平成元年)に復元された巽櫓は、全国にある城の櫓建築でもほかに例の少ないL字型の平面をもち、駿府城の櫓の中ではもっとも高い櫓だった。

逆光で見えない東御門は1996年(平成8年)に復元された。

外堀。

駿府の火消し衆だろか。

御幸町から静岡駅方向を望む。

JR静岡駅。このまま清水の江尻宿まで進むか、ここ静岡府中宿で締めるか。清水まで行くと今日中に自宅に帰れないかも。ここで打ち切って静岡発15時41分の浜松行きに乗れば、大阪まで所要時間6時間1分と青春18きっぷ最速の乗り継ぎで帰れる。

発車まで30分で自転車を輪行バックに詰め、みやげとツマミを買って、ついでに立ち食いウドンを食ってみた。ビールを買いかけたがあとで車に乗る事を思い出す。

今回のお土産は夜のお菓子「うなぎパイ」。