大井川から島田宿、藤枝宿、岡部宿

一泊二日で東海道五拾三次の旅。今日は掛川から出発し大井川へとやって来た。

大井川は駿河と遠江の国境であったため、幕府の防衛政策などにより架橋、通船が禁じられていた。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」、と馬子唄でも唄われたように、大井川は東海道最大の難所。今は自転車で5分とかからない。

江戸時代、大井川を渡るために必要な川札という切符の値段は、毎朝、待川越が水の深さと川幅を測って定め、川会所前の高札場に当日の川札の値段を掲げていた。水の深さは、股通(またどうし)や乳通(ちちどうし)と呼び、股通の場合は川札1枚が四十八文。大井川の普段の水位は二尺五寸(約76cm)で、四尺五寸(約136cm)を超えると川留めとなった。川越しのできる時間は、明六ッ(午前六時頃)~暮六ッ(午後六時頃)と決められており、旅人は川会所に出向いて川札(川越札や油札ともいわれる)や台札(連台を借りるための札)を買い、川越人足に手渡してから人足の肩や連台に乗り川を越した。このような手順も、初めて旅するものにはわかりにくかったため、「立会人」と呼ばれる者たちが毎日川会所に詰め、旅人たちに川越しの手引きをした。川札は防水のために油が染み込ませてあり、人足は旅人より渡された川札を髷や鉢巻に結びつけ川越をおこなった。

島田宿

上段:大日本帝国陸軍測図の地形図 明治22年測図 大正5年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、島田宿は、本陣3軒、脇本陣なし、旅籠48軒、家数1,461軒 だった。江戸日本橋まで、あと52里2町45間。

嶋田 大井川駿岸

歌川広重 東海道五拾三次 嶋田 大井川駿岸 保永堂版

遠江と駿河の国境であった大井川には橋が架けられず、川越人足による徒行渡しであった。ひとたび飴が降って増水すれば何日も川留めをされる事になり、旅人はこの川を無事に越せるかどうかは大きな関心事であった。島田宿のある駿河側の岸を見下ろすような構図のため、これから川を渡ろうとする大名行列は蟻の行進のように小さく描かれている。

金谷宿に続き島田宿も大井川の画。現代、川の中を歩いて渡る人はいないが、河原をジョギングしている人はいっぱいいる。そんな大井川を大井川橋の上から撮影。

島田宿大井川川越遺跡。島田宿の川越しの拠点。

川会所。川の深さなどを測って川越しの料金を決めたり、川札(かわふだ=切符)の販売のほか川留めや、川開けなどを取り仕切った川役人がいた。元禄9年(1696)に川越制度が確立されてから、川越業務を行なってきた建物。建物は安政3(1856)年に建てられたもの。

肩車(かたくま)

川越人足の肩にまたがり越す。川札は1枚だが、常水(水深76センチ)以上は、手張(てばり=補助者)が一人つくので川札が2枚必要だった。

連台越し

(1)平連台(手すりなし) 一人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札1枚(川札2枚分の料金)が必要。二人乗りの場合、担ぎ手6人で川札6枚と台札1枚が必要。
(2)半高欄連台(半手すり2本棒) 担ぎ手は、平連台と同じ4人で4枚の川札と台札2枚分が必要。
(3)中高欄連台(四方手すり2本棒) 担ぎ手10人、手張2人、台札12枚が必要。
(4)大高欄連台(四方手すり4本棒) 担ぎ手16人から24人、手張4人に台札16枚が必要。大名などは駕籠に乗ったまま川越しする。

棒渡し

丸太の両端を2人の待川越が持ち、それにつかまって渡ります。(無料)

馬越し

人や荷物を乗馬のままで、川越人足が付き添って渡ります。士(さむらい)以上の者にしか許許されなかった。

当時、大井川を渡るのはめちゃ高かったようだ。

当時の町並みが復元・保存されている。

札場。一日の川越しが終了すると、それぞれの番宿で、各組の陸取りなどが人足の川札を回収し、札場で現金に替えて人足たちに賃金として分配していた。

仲間の宿。陸取りなどの詰所であり、会合や親睦の場としても利用されていた。

番宿。越人足の詰所。川越人足は一から十までの組に分けられ、各番宿にて待機していた。

番宿で待機している川越人足。

三番宿。

六番宿。

島田の街道筋に当時を偲ぶものは無い。

島田宿 本陣跡。シンボルはからくり時計。

島田を後に藤枝に向う。途中、所々に松並木が残っている。

青島酒造、喜久酔。きれいな旨味を備え若々しささえ感じ取れるような酒質でまろやかな旨味とたくましさを持った酒、だそう。残念ながら閉まっている。

鈴木鉄工所に突っ込む松。

藤枝宿

上段:今昔マップon the web 明治28年測図 明治42年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、藤枝宿は、本陣2軒、脇本陣なし、旅籠37軒、家屋数1,061軒。鎌倉時代から市の立つ宿場として開け、江戸時代には田中城の城下町として発展した。田中城といえば徳川家康が鯛の天ぷらを食べて死んだのが田中城。

瀬戸川にかかる勝草橋を渡る。となりに架かる橋は、歩行者専用のふれあい大橋。週末には7色にライトアップされる。

藤枝 人馬継立

歌川広重 東海道五拾三次 藤枝 人馬継立 保永堂版

上伝馬町の問屋場の床が極端に高い窓口から役人が見守る中、笠を被り黒い羽織を着た荷主らしき武士と、帳面を片手に持った事務担当の帳付(ちょうづけ)が荷物の確認をしている。馬から荷物を下ろす者、煙草を吸ったり、背中をぬぐう者など人足達の様子が画かれている。

上伝馬町の問屋場は東海道下りの伝馬業務を行っていた。駐車場にある広重の画の看板にはここがモデルとなった地のような事が書かれている。藤枝市のホームページには、藤枝三丁目の橋本食堂のあるところに問屋場が置かれていたとある。交番の巡査さんに聞いてみるが、現在の道案内なら分かるが昔の事は分からないそう。間を取って交番を撮ってみる。

交番横の橋本食堂。昭和の味ラーメンが気になる。

昭和の味ラーメン500円なり。

藤枝宿場まつり成るものがあるのか。

藤枝宿は他の宿場のように、1つの町や村が宿場になったものではなかった。街道に面した志太郡、益津郡の一部の町がそれぞれの親村に属しながら宿駅の役割を担った。その中心となったのが上伝馬町・下伝馬町で、上伝馬町では下りを、下伝馬町では上りの伝馬業務を分担していた。そして、業務を助ける町として、上伝馬町には、川原町・木町・鍛冶町・吹屋町の4か町が、下伝馬町には長楽寺町・左車町の2か町が置かれ、これら6か町を平町と呼んでいた。

仮宿。

横内。何のオブジェだろう。

岡部宿

上段:今昔マップon the web 明治28年測図 明治42年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、岡部宿は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠27軒、家数487軒だった。朝比奈川左岸に位置する割と小さな宿場で、十団子が名物だった。江戸日本橋まで、あと48里4町45間。

藤枝バイパスを過ぎると岡部宿。

バスを待つおばあちゃん。

この先、宇津之谷峠を登るにあたり、いまいちルートが分からない。岡部総合案内所に寄ってみると、気のいいおっちゃんがガイドマップをくれて、色々と教えてくれた。どうやら自転車は明治のトンネルを行くのが良いらしい。

岡部の町並みを行く。

街道筋らしい旧家。

サッカーボールのオブジェが流行っているのか。

小野小町姿見の橋には気付かず通り過ぎる。

岡部宿内野本陣。本陣建物の間取りを地面に平面表示してある。

天保7年に建てられた「大旅籠柏屋」。

足を洗い、旅籠にチェックインする弥次さん喜多さん。

建物の裏手にある中庭の周りには、土蔵ギャラリ-が並んでいる。

脇本陣に匹敵する規模をもつ堂々たる大旅籠。