東海道五十七次。大坂高麗橋から始まる京街道を髭の茶屋まで行ってみる。守口宿、枚方宿を過ぎ、次の宿場の淀宿を目指す。
枚方宿を後にし天野川を渡る。
ハーレーとケーハン。
農道の看板、意味あるの。吉野家の看板、牛しばきてぇ。
農道の看板の意味が分かった。農家が多いのだ。 ほんまかな?
「おけいはん」にやたら遭遇する。
淀川堤防沿いの巨大マンション。
樟葉駅では4列車そろい踏み。
樟葉駅を過ぎると、だいぶ田舎になってきた。もうすぐ大阪と京都の府境。
橋本遊郭跡。欄間飾りや格子窓が往時を偲ばせる。
二階の窓などすばらしく、ある意味文化財。
レトロを美しく未来に繋いでいらっしゃる。映画「鬼龍院花子の生涯」のロケ地だそう。
タイムスリップしたようだ。
橋本駅前にある標石。
旧街道と女子高生。
岩清水八幡宮への標石。
突然の大木出現。一里塚ではなさそうだ。
岩清水八幡宮。ケーブルカーで男山に登れるが今日は行かない。
木津川御幸橋を渡る。
淀川御幸橋を渡る。
また会いましたね、「おけいはん」。と思いきや、京街道のルートとは違った。
まちがったので土手の急坂を駆け下り、田んぼの脇を進む。
淀宿
明治45年の地図 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
淀宿は、家数836軒、本陣なし、脇本陣なし、旅籠屋16軒。江戸日本橋まで128里28町1間。
北斎 雪月花 淀
淀城跡に到着。
淀城跡。天主台には入れない。
淀城、天主台だろう。
淀城、南側。
淀城、南西側。
淀駅の商店街。
淀といえば京都競馬場。BSE騒動で吉野家から牛丼が消えたとき、場内の吉野家では食えたっけ。
「おけいはん」を撮る鉄ちゃんを後ろから撮る、みたいな。
国道1号線、宇治川大橋。いうてもまだ海から40kmほどなんだ。
新高瀬川。ヌートリアが水泳している。
なんか見えてきた。
三栖閘門。明治時代、京都~大阪間の淀川舟運が重要な輸送手段となり、流通拠点となっていた伏見港は「京都の玄関口」として繁栄していた。宇治川右岸の観月橋~三栖の間の築堤工事により伏見港と宇治川との船の通航ができなくなった。このため、淀川へとつながる宇治川と濠川との間を船が通航できるよう、昭和4年(1929年)に三栖閘門が建設された。
伏見の水路を巡る十石舟。乗船客は中国人と韓国人。Welcome Kyoto.
涼しげではある。
伏見宿
明治45年の地図 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
伏見宿は、家数6245軒、本陣4軒、脇本陣2軒、旅籠屋39軒。 江戸日本橋まで127里14町7間。
これは伏見稲荷大社。
伏見といえば寺田屋。寺田屋といえば坂本竜馬。
寺田屋は伏見の船宿として営まれていた。文久2年(1862年)4月23日、薩摩藩急進派の有馬新七以下35名が関白九条尚忠と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した。これがいわゆる寺田屋騒動。慶応2年(1866年)正月21日坂本龍馬も伏見奉行所の捕方に襲われたが難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し焼失したが、現在の建物はその後再建されたものだそう。二階に残る柱の刀傷も再現されたものでした。
坂本竜馬像。暗殺されていなければ、今の日本は如何様なものになっていただろう。竜馬は今の日本をどう思っているのだろう。きっと「こりゃいけんのう」と。
伏見の塩屋町。
黄桜、カッパカントリー。
こちらは月桂冠。
鳥せい本店。
食べ歩きもできる伏見はすっかり観光地。
松本酒造。
伏見をゆっくり散策したいが、次回においておく。今日は街道を進む旅。