東海道五十七次(京街道・大坂街道)その2

東海道五十七次。大坂高麗橋から始まる京街道を髭の茶屋まで行ってみる。JR京橋駅を過ぎ、新京橋商店街へと続く旧東海道を進む。

京街道は京橋駅を過ぎるとJR環状線のガード下をくぐり、国道1号線を横断して新京橋商店街Begin Kyobashiへと延びていく。

Begin Kyobashi 新京橋商店街

野江や内代は下町住宅街。

野江国道筋商店街。道端で飲んだくれているおやじがいたりする。

関目の七曲り。なるほど右へ左へクネクネと進む。

関目を過ぎ、古市橋を渡ると森小路商店街。アーケードは無いがまずまずの賑わい。

続いて、千林商店街。こちらも賑わっている。

今市から京阪守口市駅付近まで区画整理で旧街道は立ち消えてしまっているが、やがて現れる京阪東通商店街が京街道。各店舗の目玉商品のアナウンスがアーケード中に流れている。カミ気味ながらフレッシュなアナウンスだなと聞きながら走っていく。

カミ気味のフレッシュなアナウンスのヌシは全身タイツのギャルだった。となりには、ゆるキャラ「メガ佐藤」。

守口宿

明治44年の地図  時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 

守口宿は、家数177軒、本陣1軒、脇本陣なし、旅籠屋27軒。江戸日本橋まで135里4町1間。

守居橋。橋の下は川じゃなく道路。すでに文禄堤の上を走っているらしい。

旧家がちらほら残っている。電柱も竹カバーが付いて雰囲気を高める努力が見えるね。でも反対側はスナックビル。この対比が都会の旧街道らしくておもしろい。

本町橋から京阪守口市駅を望む。松屋発見。松屋で豚バラ焼肉定食が食いたい。

本町橋。文禄堤の高さがよくわかる。文禄堤は豊臣秀吉が伏見城と大坂城を結ぶ最短距離の道として文禄五年(1596年)に毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に命じて淀川左岸の堤防を改修整備したもの。堤の長さは27キロメートルもあったそうだが、度重なる淀川の回収工事でほとんど残っていない。現在はこの辺りにのみ江戸時代の宿場町の面影を偲ばせる。

文禄堤の上を街道は進む。高場札が再現されている。

東海道57番目の宿場、守口宿。古民家で喫茶店などある。

こちらは写真館。

守口宿本陣跡。今は駐輪場になっている。

難宗寺の角に標石が4基。

難宗寺。

街道は住宅街をクネクネと抜け、浄水場の横を通り、淀川堤防に出る。ここから枚方までは淀川の堤防を走る。

近畿道と中央環状線、そして大阪モノレールが淀川を越える橋。鳥飼大橋。

大日のタワーマンション。なんとなく未来少年コナンの三角塔を思い出す。

三角塔は、こういうやつ。

堤防の下の河原にサイクリングロードが続いている。淀川マラソンは小雨の中そこを走った。今日は堤防の上をチャリで高速走行。

グランドゴルフというヤツか。ゴルフができなくなったらやるのか。それとも別物か。

鳥飼仁和寺大橋。

淀川新橋。

「ひらパー兄さん」こと園長岡田君のおかげで大人気の、ひらかたパーク。レッドファルコンやメテオはサイコー。娘と何度と来た思い出がよみがえる。

枚方大橋。調子に乗って堤防上を快走していたら、枚方宿への入口を行き過ぎている。

安藤広重 三十石船  当時は淀川は船で移動するのが主流だったようだ。

枚方宿(牧方宿)

明治44年の地図  時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

枚方宿は、家数378軒、本陣1軒、脇本陣なし、旅籠屋69軒。江戸日本橋まで132里4町1間。

桜町交差点から街道に戻る。最寄り駅は京阪枚方公園駅。西見附とよばれている。

鍵屋さん。江戸時代には宿屋を営み、幕末頃になると淀川三十石船の「船待ち宿」として繁盛していた。近代以降は、平成9年(1997年)まで料理旅館として営まれていた。

内部が丸見え。19世紀初頭の町家建築の構造を残している。

料理旅館「鍵屋」は、創業天正年間と伝えられている。

虫籠窓のきれいな古民家が並んでいる。

こだわり食品 きしな屋さん。

雑貨屋さん。

枚方宿問屋役人の木南喜右衛門家。 屋号は田葉粉屋。

坂口医院。

この付近は電柱と電線がないので町並みがすっきりしている。

いい雰囲気。

氷屋さんにはカキ氷を食べる若者でぎっしり。

イオンを過ぎて枚方市駅の手前に標石。繁華街と標石のアンマッチがすばらしい。

枚方橋手前の旧家。まわりは繁華街。

京阪電車 枚方市駅。

枚方市駅から少し走ると枚方宿問屋役人の小野平右衛門家。屋号は八幡屋。この先には天野川の堤防が見えてくる。枚方宿も東見附で終わる。