三雲から水口宿、土山宿、鈴鹿峠 その1

京都三条大橋から江戸日本橋を東海道五拾三次で目指す旅。前回終了からこの一週間、JR三雲駅の無人駐輪場に置きざりにした自転車が気になっている。雷豪雨の日もあったりと屋根の無い場所に置いたため。この一週間ずっと同行者を募っていたがだれも予定が合わない。でも置き去り自転車が人質となり次に進む半強制のような状況だと気が変わらなくていいもんだ。次の土曜日はどうやら天気が良さそうだ。

リュックに着替えを詰め込み土曜の早朝に家を出る。一番早く三雲駅に着くには地元の駅を5時27分発の各停に乗らなければならない。尼崎、大阪と乗り換え、快速で草津までおよそ1時間半。こんな時間帯なのにけっこう混んでいて戸袋の補助席に座る。補助席はクッションが効いてなく尻が痛くなってきた京都あたりでようやく座席に座れた。草津駅で33分の待ち合わせなのでコンビニで買っておいたおにぎりをホームで食おうと思っていた。が、草津に着くと2分後に出発の草津線各停があるじゃないか。慌てて階段を駆け上り、そして駆け下り、なんとか間に合った。草津からは21分で三雲駅に着く。

今日はJR三雲駅から水口宿、土山宿を経て鈴鹿峠を越える。そして三重県に入り坂下宿、関宿、亀山宿、庄野宿、石薬師宿、四日市宿を経て桑名宿まで行けたら良いなと考えている。距離的には余裕だが寄り道癖があるので時間的に無理かもしれない。

自転車を置き去りにしたJR三雲駅。駅は改装工事中。無事、自転車ありました。

野洲川に掛かる横田橋を渡る。右側には歩道が無いので一旦高架下に下りて反対側の歩道を進む。野洲川に掛かる横田橋を渡ると国道1号線に合流する。トラックやダンプがとても多いが1号線とはすぐに離れる。

対岸の横田の渡し跡には大きな常夜灯がある。江戸期では三月から九月の間は四隻の船による船渡しとし、十月から翌二月のあいだは土橋を架けて通行させていた。

集落には旧家が軒を連ねるが、すぐ農村風景になる。農家のおばあちゃんは働き者だね。

この辺りから水口宿まで見通しの良い直線の街道となる。北脇縄手と呼ばれていたこの辺りの両側は土手になり松並木があったそう。今は麦畑が続いている。

水口宿

上段:スタンフォード大学所蔵 明治25年測量 昭和7年部分修正 大日本帝国陸軍測図の地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、水口宿は、天保14年(1843年)当時、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒、家屋2,692軒があり、水口城の城下町としても賑わっていた。江戸日本橋まで、あと113里7間。

水口宿に入ると杉玉の吊るされた美富久酒造が出迎える。

美富久。旨いかどうだか飲んでみたい。毎回酒蔵を見つけると思う事だが、自転車旅だと一升瓶は買えないし、飲酒運転になるので試しに飲む事もできない。ツライツライ。

東榮神社の角を右に曲がると水口城跡。寛永十一年(1634)に徳川家光が上洛する際、宿館として築城された。平城で堀に囲まれた正方形の本丸とその北側の二の丸からなる。本丸は東に出丸があり数寄を凝らした御殿と四隅に櫓を配していた。徳川家光が上洛した後は加藤氏が入城し水口藩の居城となる。

出丸に復元された真っ白な矢倉。

水口は京の都から伊勢へと通じる交通の要所にあり、中世後期には町並みが形成されていた。

水口宿の東海道五拾三次の画は、街道沿いの立ち木のそばで名物のかんぴょうを作る人々を画いている。そういう場所を探してみる。

あやの みんなの居場所、という名の集会所。人がいない。

丸窓が印象的な朝日医院。人が歩いていない。

ひと・まち街道交流館。どこにも人がいない。

八坂神社と真福寺。人も居ないし、かんぴょう屋も無い。

水口 (名物干瓢)

歌川広重 東海道五拾三次 水口 名物干瓢 保永堂版

野洲川に沿って開けた盆地の水口はこの頃二万五千石の加藤氏が治めていた。街道沿いの農家が干瓢(かんぴょう)を造る様子を画いている。農家の女たちが夕顔の果肉を細く切り乾燥させるために張った紐に掛けている。背中に赤子をおぶり夕顔の実を運び家業を手伝っている少女の姿もある。向かいの農家でも干瓢作りで垣根に掛けている様子がうかがえ、この地域が干瓢の産地だったことがよく分かる。

街道沿いで干瓢造りは行われていないが、掃除をしたり植木を出したりと朝の支度で働く女性を発見。働く女性をモチーフに再現してみる。

ひと・まち街道交流館に戻り、コンビニおにぎりを食う。ようやく朝飯にありつけた。交流館の前にはスタッフの女性だろうかトラックドライバーの方と熱心に打ち合わせをしている。水口の女性は働き者だ。

天王町にある曳山の車庫。水口曳山祭は毎年4月20日に水口神社の例祭水口祭で催される曳山の巡行祭。曳山は二層露天式で、水口の17町内に16基の曳山が現存している。曳山の中で奏される調べは「水口ばやし」と称され、楽器は大太鼓、小太鼓、鉦、篠笛の4種。

近江鉄道本線の踏切が街道を横切る。近江鉄道は貴生川から米原まで結んでいるローカル私鉄。街道の右手に水口石橋駅があるのでのぞいてみる。駅の時刻表を見るが電車は上下とも当分来ない。無人駅なのでホームまで入ってみると、やっぱりローカル色満開で楽しくなる。

近江鉄道の踏切を渡ると旧東海道の街道筋が三つに分かれている。三筋の町と呼ばれているようだ。ど・れ・に・し・よ・う・か・な♪ まあ、なんとなく真ん中の筋を進む。

曳山を見てみたいが祭りの時期ではないので見ることができない。そんなタイミングでからくり時計を見つけた。

街道の左手に見える山は水口岡山城跡。天正十三年(1585)に羽柴秀吉の命により築かれ城下町として発展した。

法律事務所。ノスタルジックないい旧街道が残っている。

ダイニングカフェTAKUMIYA。

旅籠屋 匠。

三筋の町おわり。江戸側の入り口。

桔梗屋文七。エアコンの室外機がいらんなあ。

長かった情緒あふれる水口宿の町もそろそろ終わりを告げる。