現代版 歌川広重 東海道五拾三次 逆進西編

歌 川 広 重 東海道五拾三次

歌川広重(1797~1858)は、幕府の定火消同心・安藤源右衛門の長男として生まれる。文化六年(1809)、13歳のとき両親を相次いで失い、文化八年(1811)ころに歌川豊広に入門。文化九年(1812)ころ、師から広重という画号を与えられた。天保四年(1833)ごろから、全55枚の大作「東海道五拾三次」を夜に送り出し、名所絵師としての名声を獲得。その後もさまざまな街道絵や名所絵を次々に発表する。

西編 三条大橋から見附宿まで

京師 三條大橋

広重画:三条大橋を俯瞰した構図でその向こうには東山三十六峰を望む。その中腹に青屋根の清水寺の伽藍や八坂の塔が見える。八坂の斜め左下には四条の芝居小屋の櫓も見える。左の山裾に見える大きな青屋根は知恩院。中ほどの青い屋根は実際よりも大きく画かれた雙林寺。遠景の茶色くそびえる高い山は比叡山との事だが、実際はもっと左でこの方角には見えない。橋の上を行き交う人々の中には茶せん売りや被衣の女たちが画かれている。橋の支柱が木製で画かれているが、天正十八年に完成した橋は石柱で造られていた
現代画:鴨川に掛かる三条大橋の北西側の河原から写真を撮る。浮世絵の構図はもっと高い場所からの視点で画かれている、近くのビルにでも昇らなければそのアングルでは撮れそうにない。遠くに東山のシルエットが見えるが、視点が低いので清水寺や八坂の塔は見えない。現在の橋は昭和25年に改修されたもの。欄干は木製で柱頭に擬宝珠が設けられている。橋脚は下半分がコンクリート製で上半分は石製となっている。

大津 走井茶屋

広重画:大久保純一先生によると、大谷の立場にある走井茶屋は湧き出す清水で茶屋が営まれ名物の走入餅が店番の女によって売られている。茶店の軒先にある井戸脇には魚売りの姿や巡礼の女が画かれている。京の都が近くなり、地方からの物資が盛んに運ばれる様子を、米俵を運ぶ牛車3台が連なる事で表現されている。
現代画:走井の井筒(井戸)は、現在も月心寺の中に残されている。広重と同じ構図で撮りたくて、交通量の多い1号線を横切り、月心寺横のそば屋を茶屋に、トラックを牛車に見立ててタイミングを見計らう。3台続けて来ると構図どおりだが、もっと下がらないと写真には納まらない。でも後ろは線路なのでこれ以上下がれない。

草津 名物立場

広重画:大久保純一先生によると、「うばもちや」の看板を掲げるこの店は東海道から矢橋の船着き場への分岐点に建っていて、画の右方に見える道標から画の奥へ向かう道が琵琶湖の船着き場に向かう道にあたる。この店は名物の姥が餅を売っていて多くの旅人が休憩している。立場茶屋を兼ねていた店は大きな造りで、左側に画かれた庭は風流を尽くし、身分の高い武家はこちらに通され庭を見ながら餅を食べていた。立掛けられた長鑓が武家の客が居る事を示している。街道には5人がかりで疾走する駕篭が画かれている。
現代画:草津宿の町はずれの矢橋湊へ曲がる角にある名物立場の「うばが餅屋」は、どうやらここ瓢泉堂が現在の場所のようだ。軒下には右やばせ道と刻まれた標石が立っていて琵琶湖の湊、矢橋の渡しを案内している。矢橋の渡しは琵琶湖を大津まで結ぶ渡しで、急がば回れの語源になったそう。歌川広重の浮世絵に似せようと、たまたま自転車で通り掛ったおっちゃんを街道を行き交う早駕籠に見立てて撮ってみる。

石部 目川里

広重画:大久保純一先生によると、石部の画は草津宿近くの目川立場。菜飯と豆腐の味噌田楽が名物。本居宣長や大田南畝らも大変美味であったと日記に書き残している。歌川広重は東海道名所図会の挿絵を参考にしたようだ。同書を開いたとき目川の茶屋の挿絵が左ページで右ページには石部宿の説明が書かれている。それを見て目川の立場が石部宿の近くだと誤解したようだ。
現代画:草津宿からほど近い目川立場田楽茶屋の古志ま屋跡と元伊勢屋跡。現在は茶屋は無く、住宅街となっている。

水口 名物干瓢

広重画:大久保純一先生によると、野洲川に沿って開けた盆地の水口はこの頃二万五千石の加藤氏が治めていた。街道沿いの農家が干瓢を造る様子を画いている。農家の女たちが夕顔の果肉を細く切り乾燥させるために張った紐に掛けている。背中に赤子をおぶり夕顔の実を運び家業を手伝っている少女の姿もある。向かいの農家でも干瓢作りで垣根に掛けている様子がうかがえ、この地域が干瓢の産地だったことがよく分かる。
現代画:街道沿いで干瓢造りは行われていないが、掃除をしたり植木を出したりと朝の支度で働く女性を発見。働く女性をモチーフに再現してみる。

土山 春之雨

広重画:大久保純一先生によると、広重の画は江戸側から雨の中鈴鹿峠を越え、渓流に架かる橋を渡る大名行列を題材にしている。うつむき歩く姿もあり皆疲れた様子が伺える。木立の奥に見える建物を田村明神社とする説があるが、実際の田村明神社はもっと立派である。広重は春之雨という副題のとおり、雨が多いこの地域の様子を画きたかったのではという説もある。「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と歌う鈴鹿の馬子唄もあるくらい雨が多いようだ。
現代画:背後の森は先ほどお参りした田村神社の境内。田村川に掛かる橋は近代化されているが烏帽子もあり旧街道らしい雰囲気はある。橋を渡る大名行列を、今から鈴鹿峠ハイキングに向かう団体さんをモデルに表現したかったが、すでに渡り終えて間に合わなかった。おまけに今日は雨も降りそうに無い。

阪之下 筆捨嶺

広重画:大久保純一先生によると、広重の坂之下の題材は関宿と坂下宿の間にあった藤の茶屋から望む筆捨山。茶屋の先には八十瀬川の深い谷が画かれている。筆捨山は実際は標高286mと高くはないが、松の木が生い茂り所々岩が露出し滝が流れている様子が鈴鹿山中の険しく変化に富む絶景を表現している。
現代画:筆捨山バス停付近の民家の裏から筆捨山を見上げると、山の稜線も似ているし、茶屋のような農家も構図に入った。広重の筆捨山は岩肌で滝が流れている。現在の筆捨山も一部岩肌が出ているが滝は無さそう。でも人がいない。坂の文字を阪に修正せねば。

関 本陣早立

広重画:大久保純一先生によると、広重の関宿は、まだ夜が明けきらない早朝、本陣に宿泊した大名行列の出立前の様子を画いている。路上に立てられた札は宿泊している大名の名を記した関札。御用と書かれた提灯を持つ役人らしき人物と年配の武士とがやり取りをしている様子や、門の前では上役が出てくるのを待つ腰を折った武士たちの姿が画かれている。本陣の幔幕に染められた家紋は広重の父方の実家である田中家の田と中を組み合わせた紋様で、門の前で中間がが持つ箱提灯にはヒロ印が画かれている。本陣内の下げ札には当時の有名ブランドであった白粉「仙女香」と白髪染め「美玄香」の名が書かれていて、「京ばし南てんま丁三丁め 坂本氏」と店の場所まで記されている。
現代画:現在の写真は伊藤本陣跡。まあ夜明け前でないし今から出発する人もいないが、広重の本陣の画とイメージは一致したことにする。

亀山 雪晴

広重画:大久保純一先生によると、保永堂版が画かれた当時の亀山宿は石川氏六万石の城下町であった。東海道は城の南側を鉤状に折れ曲がりながら通っていた。高台の上にある亀山城に向かうこの画のような坂道は城の西出口である京口門にある。一面銀世界となった冬の朝、急な坂道を登る大名行列が画かれている。坂の上には亀山城の櫓。
現代画:雪なんぞ季節が違うし京口門も今は無い。しょうがないので京口坂橋を渡ったすぐ左手にある梅巌寺の山門を亀山城京口門に見立ててみた。

庄野 白雨

広重画:大久保純一先生によると、白雨とは夕立やにわか雨の事。客を乗せた駕籠かきと、急な雨を避けるため坂道を急ぐ姿が画かれている。庄野宿は伊勢平野を流れる鈴鹿川沿いにあり、宿の近くには急な坂はない。
現代画:歌川広重の庄野の画は関西本線 加佐登駅北側の山沿いの道がモデルだと旧小林家住宅資料館のおばちゃんに教えてもらった。背後には鬱蒼とした小山があるが坂道はない。自転車で通りかかった高校生を入れ込んでみた。そして雨ではなくいい天気。旧東海道は国道1号線に飲み込まれていて面白くもなんとも無い。こちら側を行くほうが風情がありよろしい。

石薬師 石薬師寺

広重画:大久保純一先生によると、石薬師寺を中心とした宿場町をやや距離をとって画いている。手前の畑道と交差して左右に走る道が東海道。高い木立の奥に石薬師寺の山門と伽藍の屋根が見える。背後の山並みは鈴鹿山脈となるが実際よりも随分と大きく画かれている。
現代画:石薬師寺山門前の三叉路が構図だろう。しかし住宅が建ちこんでいてドローンでもないと歌川広重のような構図にはならない。人もいないのでつまらない。電柱も標識もじゃまだな。

四日市 三重川

広重画:大久保純一先生によると、広重の四日市は、橋と葦の生い茂る鄙びた雰囲気の画。強い風は柳の枝を大きく吹きなびかせ、水際の葦原もみなそよいでいる。橋の上を渡る旅人は風に飛ばされまいと合羽をしっかりと押さえ、土手では転がる笠を追いかける姿が画かれている。奥には船の帆柱が立ち並び海が近くに迫っている事がイメージされる。
現代画:三重川って川が見つからない。とりあえず、鹿化川でそれっぽい構図で撮ってみる。自転車のお姉さんの帽子でも飛ばないかと期待したが帽子を被っていなかった。後ろの煙突の煙が風の強さを表してるね。調べてみると三重川は三滝川のようだ。後日、三滝川でもそれっぽい構図で撮影してみるがイメージが違う。

桑名 七里渡口

広重画:大久保純一先生によると、桑名藩11万石の城下町であった桑名宿は伊勢湾交通の要所として伊勢神宮や熱田神宮への参詣人の行き来で賑わっていた。桑名城を背にした船着き場に大勢の乗客を乗せた2艘の渡し船が帆を下ろしている。海面には日差しが反射しさざ波がきらきらと輝いている。
現代画:七里の渡し跡のそばの内掘に並ぶモーターボートと蟠龍櫓を構図に入れてみた。治水のための堤防がその先の揖斐川とを遮断している。堤防の向こう側は広々とした揖斐川が流れている。堤防が無ければ広重の画のような雄大な景色が広がっている。

宮 熱田神事

広重画:大久保純一先生によると、熱田神宮への奉納神事として催されていた馬の塔と呼ばれる祭事の様子を画いている。剣祓(けんばらい)を付けてはいないが荒ごもを巻いた裸馬の綱に人々がつかまって走る俄馬(にわかうま)。二つの隊列は有松絞りの揃いの半纏をまとった男たちが疾走している。
現代画:端午の節句に催されていた馬の塔は現在熱田神宮では催されていない。ベビーカーを馬に見立て三ノ鳥居を通る人々を撮影してみた。

鳴海 名物有松紋

広重画:大久保純一先生によると、鳴海宿の画は鳴海宿の東半里ほどにある有松村。当時、有松村は絞り染めの産地として有名で絞り染めの浴衣や手ぬぐいは国内需要の大半をまかなっていた。東海道に面した絞り染めを商う店が二軒建ち並んだ様を画いており布地や浴衣がつるし売られている。街道を行く駕籠の三人連れや軽尻に揺られる人はすべて女性。
現代画:絞り問屋 井桁屋と服部邸土蔵、その先は絞り工房ゆはたや。寛政三年に建築された。この界隈は絞り問屋が軒を並べ往時の面影をとどめている。

池鯉鮒 首夏馬市

広重画:副題は首夏馬市とあり、首夏とは陰暦四月のこと。馬市は毎年4月25日から5月5日まで池鯉鮒宿の東の野原で行われていた馬の市。のんびりと草を食む馬たちの中を風が吹き渡っている。初摺りには地平線になだらかな山が真っ黒なシルエットで画かれている。
現代画:知立の東部、田んぼが広がる地区を見つけた。上手く一本木もあるし、遠くにはうっすらと山のシルエットも見える。当然ながら馬はどこにもいない。

岡崎 矢矧之橋

広重画:岡崎宿は岡崎城の城下町。この城は徳川家康の生誕地であったため幕府の要職を務める譜代大名が配されていた。岡崎城下で当時全国的に有名だったのは、矢矧川に架かる矢矧橋。当時日本最長として知られ橋の長さは通称208間(約370m)といわれていた。広重の画は橋の西のたもとから川の東岸に向かって望み岡崎城の天守閣や櫓を林立させている。
現代画:日が暮れて闇夜に塗り換わりつつある矢作川。矢作橋には車のヘッドライトが流れている。岡崎城はマンションやビルの間に小さく見える?

藤川 棒鼻ノ図

広重画:街道をはさんで奥に榜示杭(ぼうじぐい)、手前に高札場の屋根、両側の土盛をした石垣が画かれ藤川宿の入り口だとわかる。入り口には宿場の役人らしき二人の男が土下座をし頭を垂れ、通りがかりの旅人も笠を取って膝を突いている。出迎えているのは幕府が朝廷に馬を献上する八朔の御馬進献(おうましんけん)の行列。かしこまって身を低くした宿場役人たちの緊張をよそにじゃれ合っている子犬たちがユーモラスだ。
現代画:藤川宿の東の端に棒鼻が復元されている。歌川広重の画を意識した配置。遠くで畑仕事しているお父さんを呼びたいが忙しそう。

赤阪 旅舎招婦ノ図

広重画:当時の旅籠の内部を画いている。庭にはソテツが植えられ廊下の角で隣接する二部屋を捉えた構図。右手の布団部屋のような部屋で鏡台に向かっているのがこの旅籠の飯盛女たちで、客の前に出るための準備をしている。左の部屋では旅装を解いてくつろぎ煙草をくゆらせる客のもとに宿の女がお膳を運んできている。その横ではかしこまった按摩(あんま)が用の有無を伺っている。廊下には湯から上がった男が手ぬぐいを肩にかけ帰ってくるなど夕餉時の旅籠の活気ある様子がつたわる。
現代画:旅籠 大橋屋の内部は現在改装中。2015年3月まで旅籠の営業を行っていたが創業366年目にして豊川市に寄贈された。

御油 旅人留女

広重画:赤坂宿から松並木を進むとほんのつかの間で御油の家並みに到着する。東海道の宿駅間の距離としては最短のわずか16町(1.7km)しかない。目と鼻の先のところに似たような規模の宿場があり、客の争奪戦は大変熾烈なものだった。夕暮れの訪れた宿場の往来の真ん中で旅人の腕や肩の荷物を無理やりつかんでいる女たちが留女。自分の勤める旅籠に旅人たちを引きずり込んで、強引に泊らせようとしている。右側の旅籠の中では今到着した客が草鞋を脱いで足を洗っている。梁から吊り下げられた札はこの宿と特約を結んでいる講の名前が書かれる筈だが、この版画に携わった人々の名前が記されている。
現代画:格子窓の旧家が建ち並ぶ様は広重の画に相通じる。が、人がいない。

吉田 豊川橋

広重画:吉田宿は吉田城の城下町で当時の城主は7万石の松平伊豆守信順。その吉田城の櫓が大きく画かれているが、城は足場を組んで修理の真っ最中で、足場の上から職人が手をかざして豊川橋を眺めている。豊川橋は吉田大橋のことで、橋の長さは120間(216m)、岡崎の矢矧橋、大津の瀬田の唐橋と並んで東海道の三大橋のひとつに数えられていた。
現代画:歌川広重の画はドローンでも無いと撮れないアングル。左右逆になるが吉田城の鉄櫓(くろがねやぐら)と吉田大橋を収めることができた。でも広重の橋はもう一本下流の橋、豊橋。

二川 猿ヶ馬場

広重画:大久保純一先生によると、三河の国の最も東ににある宿場二川宿よりもはるか東に猿ヶ馬場は位置する。三河と遠江の国境を流れる境川よりもさらに東にあるのでむしろ白須賀宿に画かれるべきかもしれない。東海道名所図会で猿ヶ馬場が二川宿の項目の末尾に描かれていたいたからだ。小松の生い茂る原山をゴゼが三人寄り添って歩いている。名物かしわ餅を売る茶店には旅人が立ち寄っている。
現代画:境川付近の田園と雑木林をモチーフにしてみた。かしわ餅を売る茶店も無いし人もいない。静岡県に少し踏み入れているが、昔は同じ吉田藩の領地なので気にしない。

白須賀 汐見阪図

広重画:大久保純一先生によると、潮見坂から望む遠州灘は東海道でも有数の絶景として知られていた。広重は坂道と両側の松の木を使ってこの眺めを強調するかのように仮面の中に楕円形の枠を作り出している。浜辺には人家や漁網が点在するのどかな漁村風景で海面には多くの漁船が浮かんでいる。大名行列は坂を下り参勤交代で江戸に向かっている。
現代画:現在の潮見坂から望む太平洋は、樹木の枝葉が生い茂り電線もジャマで視界が開けていない。白須賀小学校の前にある展望台は潮見坂の頂上で、ここからの眺めは視野いっぱいに大海原を見渡せる。

荒井 渡舟ノ図

広重画:大久保純一先生によると、現在は新居と表記されるが、江戸時代には荒井と表記されるほうが多かった。対岸に関所の柵と面番所が描かれている。湖水の上では大名行列を乗せた舟が今切の渡しを荒井に向けて進んでいる。先を進む大きな船は幔幕を張り巡らせ毛槍や吹き流し、台傘、長柄傘などを立てて威儀を正した様子から藩主が乗る御座船のよう。小舟は船頭らが力を込めて操っているが、乗客の中間たちは居眠りをしたり大きく伸びをしたりと、皆すっかりくつろいでいる。
現代画:現在の荒井関所は周りがすっかり埋め立てられ湖からは見ることができなくなっている。資料館の方に、「広重の画のように湖から関所が見れる場所はありますか?」と尋ねるが、やはり「今は埋め立てが進んで見ることはできなくなった。ごめんなさいね」と謝られてしまう始末。

舞坂 今切真景

広重画:大久保純一先生によると、浜名湖は明応の大地震で遠州灘と繋がり海水と混ざる汽水湖となった。東海道は海と繋がる陸の切れ目の今切を1里ほど船で渡っていた。その航路付近を描いた舞坂宿の画面手前には、遠州灘からの波除けのために打ち込まれた数多くの杭が描かれている。岸辺に筵の帆が立っている辺りが舞坂で、富士山が右端にあるので浜名湖を北に向かって望んでいる。中央の山々は庄内半島だろうが、実際には高く険しい山はない。漁をしている小舟はどうやらウナギを取っているようだ。
現代画:舞阪の坂を間違えた。舞坂脇本陣から水神宮の前を通り、漁船の並ぶ記念橋を渡る。漁港沿いの道を進んでいくと浜名バイパスの今切口に架かる浜名大橋が見えてきた。散歩しているおっちゃんに入り口を教えてもらい舞坂が一望できる岸壁から、ちょうど漁船が港に戻るところを撮影した。右端が舞坂宿、左端は今日の出発地弁天島。

濱松 冬枯ノ図

広重画:大久保純一先生によると、徳川ゆかりの城下町である浜松の画には、画面右の奥に浜松城が描かれ三層の天守閣が見えるが、実際は17世紀には天守閣は姿を消している。大久保純一先生によると、画の中心に大木を配し、この木の下で寒空の中、下半身フンドシ一丁で焚き火にあたっている男たちと、子供をおぶりホウキを手に焚き火のために枯れ葉を搔き集めている女が描かれ、城下から離れた街道のひなびた様子がうかがえる。画面右手の松の疎林には立て札があり野口村のざざんざの松を描いているが、実際には東海道の街道から見える場所にはない。
現代画:出世街道から浜松城への登り口、市役所前の並木を中心に配して撮ってみる。通行人のお兄さんはフンドシじゃあないし、焚き火なんてできっこない。

見附 天竜川図

広重画:大久保純一先生によると、諏訪湖を水源とする天竜川は、遠江の中央を南北に貫く東海で有数の大河。古来より暴れ天竜と呼ばれるほどの急流で、東海道辺りの川幅はおよそ10町(1,100m)もある。川には中州があり大天竜、小天竜といわれる流れに分かれ、二つの流れを舟で渡ることを二瀬越えと呼んでいた。この二瀬越えの様子が描かれた見附の絵には、のんびりと舟を泊めて客を待つ船頭とキセルをくわえて世間話にきた隣の舟の船頭が描かれている。中州の向こうには客を乗せて漕ぎ出す舟と岸に着く舟、そして舟を待つ武士たちが賑やかに描かれている。
現代画:浜松側から天竜川を撮影する。今は天竜橋が架かり、あっという間に渡れてしまう。当然、流れに舟など無いし、河原に人の姿も無い。あるのは二瀬の流れと水位計。