小田原宿から大磯宿、平塚宿、藤沢宿 その2

京都三条大橋から江戸日本橋を東海道五拾三次で目指す旅。あいにく天気は下り坂、天候が悪くなる前に進むため、昨日は青春18きっぷで沼津まで、前のりの前泊。今日は小田原駅まで電車で輪行し、小田原宿から酒匂川を渡り大磯宿へと向かう。

国府津の海岸には西湘バイパスが東西に走り、その先には太平洋がうねっている。今日は天気が下り坂、すでに風がものすごく強い。

大磯宿

上段:今昔マップon the web 明治20年測図 明治29年発行地形図  下段:Google Map 2018

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、大磯宿は、本陣3軒、脇本陣なし、旅籠屋66軒、家数676軒。江戸時代には商業地としても栄えた。江戸日本橋まで、あと16里27町。

旧東海道はほとんどが国道1号線に飲み込まれてしまっているが、わずかに残る旧道には松並木が風情を醸し出す。

頭上を軍用機2機が低空飛行で飛んできた。2機編隊の距離は近く、民間機ではありえない挙動で右旋回していく。

爆音を立てて大磯ロングビーチの上空を飛び去っていった。どこへ行くんだろう。

太平洋岸自転車道は、太平洋沿岸に整備されている自転車道群で、千葉県銚子市から和歌山市の加太海岸まで、全長1,200キロメートルの大規模なサイクリングロード。まだ完成していない。

鴫立庵は日本三大俳諧道場のひとつ。あとのふたつは京都の落柿舎と滋賀の無名庵。

国道に飲み込まれた大磯宿の町並み。

蔵を利用したコーヒーラウンジ。気にはなるが雨も気になり先に進む。

三沢橋を過ぎた辺りから旧街道が残っている。松並木が残る住宅街。

大磯 虎ヶ雨

歌川広重 東海道五拾三次 大磯 虎ヶ雨 保永堂版

広重の大磯宿の画は、左に海があり、宿場の境界を示す榜示杭が描かれている事から、宿場の東の入口付近。街道には松並木が続き、宿場の家並みへと続く。題目の虎ヶ雨とは旧暦の5月28日に降る雨のこと。今の暦では梅雨時の雨にあたり、降ったり止んだりと、パラパラと降る雨模様を画いている。

大磯宿の東の端に位置する化粧坂付近の松並木で撮影する。この付近の旧街道沿いは松並木が整備されているが、周りは住宅密集地となり海は見えない。

松並木の住宅街も残念ながらJR東海道線で断ち切られ、地下道へと進む。左にちらっと見えるのは高麗山。

地下道を潜り抜けると再び緑多い住宅街。化粧坂の一里塚を越え進む。ご近所さんの朝の散歩道のよう。

ド派手なスカイブルーの家の前に虎女化粧井戸がある。

茅葺屋根の民家があったり。

平塚宿

上段:今昔マップon the web 明治20年測図 明治29年発行地形図  下段:Google Map 2018

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、平塚宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋54軒、家数443軒。もとは平塚村だけが宿場だったが、慶安4(1651年)に八幡新宿(平塚新宿)が追加された。江戸日本橋まで、あと16里。

花水川に架かる花水橋を渡ると平塚宿へと入って行く。

平塚宿問屋場跡。今は消防団。シャッターには広重の画がデデンと描かれている。

高麗山を振り返りながら東へ進むが、建物がジャマでイマイチな眺望。

平塚 縄手道

歌川広重 東海道五拾三次 平塚 縄手道 保永堂版

平塚宿の西の入口に立つ榜示杭の付近から西を望む風景。お椀を伏せたような丸い形をした山は、高句麗からの渡来した人々が多く住んでいたことから高麗山(こまやま)と呼ばれる山。広重はその特徴的な丸みを強調し画いている。高麗山の右奥にはゴツゴツとした険しい姿の大山が画かれ、高麗山との間に富士山が覗いている。題目の縄手道とは田んぼの中の畦道の事で、田んぼの中を細い道が折れ曲がり遠景へと続いている。道の途中に見える橋は、その大きさから花水橋ではなく花水小橋だろう。

花水橋付近からは高麗山が近すぎる。ホテルの最上階へ上がれば高麗山の全貌が見れるかと思ったが、周りの建物も同じ高さにありイマイチ眺望はよくなかった。今日は雲が多く、富士山は見えない。

 

脇本陣跡。石碑と案内板以外何も無い。

江戸見附を過ぎ、のちの平塚新宿と呼ばれる辺りからアーケード商店街となる。平塚の繁華街は昔と今では位置が違うようだ。

なかなか大きな平塚駅。

相模川を渡る。南側を渡るのは東海道線。堂々の15両編成。

旧相模川橋脚は国指定史跡および天然記念物。鎌倉時代1198年に源頼朝の家来であった稲毛重成が亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために相模川に架けた大橋。この橋脚は、直径約60センチメートルのヒノキの丸材で橋全体の幅は約7メートル、当時は全国有数の大橋であった。

鳥井戸橋は南湖左富士と呼ばれる場所。東海道を江戸から進む道中で左側に富士山が見えるのは、吉原宿の左富士とここ南湖の左富士。今日はまったく見えやしねぇ。

茅ヶ崎の街には松並木が随分残っている。

松ぼっくりの赤ちゃんがタワワになっている。

茅ヶ崎とはここでおさらば。茅ヶ崎といえば湘南爆走族。でも湘爆どころか、ビービーうるさい原チャリ小僧も見掛けなかった。健全な街、茅ヶ崎。

藤沢宿

上段:今昔マップon the web 明治20年測図 明治29年発行地形図  下段:Google Map 2018

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、藤沢宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋45軒、家数919軒。境川を挟んで、東の鎌倉郡大鋸町と西の高座郡大久保町、坂戸町をあわせて藤沢宿となった。江戸日本橋まで、あと12里18町。

車のナンバープレートは湘南。バスのナンバーも湘南。憧れの地名だね。でも湘南ナンバーを付けられる地域は、平塚市、藤沢市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、南足柄市、高座郡寒川町、中郡大磯町、二宮町、足柄上郡中井町、大井町、松田町、山北町、開成町、足柄下郡箱根町、真鶴町、湯河原町と神奈川県の3分の1ととても広い。まったく湘南じゃあない場所も湘南ナンバー。

ラーメン街道や。ハラ減ってきた。

藤沢本町に建つ、レンガと白壁のシブい蔵。

藤沢宿 蒔田本陣跡。

二階の窓がイカツイ。

藤沢宿の旧東海道は電柱が地中化されている。配電箱には昔の写真がプリントされ旧街道の歴史を感じられる。

藤澤 遊行寺

歌川広重 東海道五拾三次 藤澤 遊行寺 保永堂版

小高い岩山の上に建つのは遊行寺の伽藍。実際の遊行寺はこれほど険しい岩の上にはなく、地形を誇張して画かれている。江戸から来た東海道は、その遊行寺の脇の坂道を下り、この画に描かれた境川に架かる大鋸橋を渡る。鉢巻をして大きな木太刀を担いだ男を先頭に、橋を渡る揃いの法被を着た一行は大山講で江戸の職人たち。四人の座頭の一行がくぐろうとしているのは、一里ほど先にある江の島弁天の一の鳥居。

境川に架かる大鋸橋は、現在は遊行寺橋と名を変えている。その遊行寺橋から、遊行寺の山門や山が見えている。広重の画にある江の島弁天の一の鳥居は、現在存在しない。

遊行寺の正式名称は藤沢山無量光院清浄光寺。

ふじさわ宿交流館。

近隣の古い会社の看板があったり。

歌川広重の東海道五拾三次の版画などあったり。

遊行寺の東側を北向きに登っていく。電動チャリンコのおばちゃんに抜かれそうになるが、負けず嫌い発動、全力で登ってしまった。