瀬田から草津宿、石部宿、横田川渡し その1

四国遍路を思い立ち、弘法大師へご挨拶がてら旧西国街道を東寺へお参りした。偶然着いた京都三条大橋で江戸日本橋を目指してやろうと新たに思い立ち、旧東海道を瀬田の唐橋まで進んできた。瀬田駅前の餃子の王将で汗だくのまま餃子を食ったのが前回の区切り終わりの出来事だった。あれから時が流れ中途半端な性格上、次へとなかなか進めなかった。そんなある日、明日、東海道を攻めてやると急遽思い立ち、仲間を誘うが断られ、一人で滋賀県の瀬田に出掛けることにした。午後から用事があるにも関わらず。

そんなことで、午前中しか時間が取れない。車に自転車を積み込み、早朝の高速道路を瀬田へと走る。中国道、名神、京滋バイパスを通り、瀬田東インターで降りる。前回終了地点のJR瀬田駅には迷うことなくすぐ着いた。瀬田駅の南側はワリカシ開けていて餃子の王将も健在だ。そのため駐車場代も割り高く思える。反対の北側は住宅地が広がっていて北側にある駐車場のほうが断然安い。1日最大800円なり。迷うことなく安さを選ぶ。しかも駅までアンガイ近い。

駐車場に車を停め、自転車をセッティング、ひとまずJR瀬田駅の南側に向かう。

JR瀬田駅。前回フィニッシュした開店前の餃子の王将を確認。汗だくには餃子とビールが旨かった。この付近には龍谷大学と滋賀医科大学があるので駅前には学生とおぼしき若者がちらほら。

瀬田駅前から学園通りを南下し国道1号線を横切る。さらに若干の登り坂を南へ進むと、一里山1丁目の交差点を横切るのが旧東海道。ここには一里塚跡の石碑がある。過去には大きな松の木が植えられていたそうだ。

旧東海道を江戸方向へ進む。この辺りは新しい家と旧家が入り乱れている。神社だ寺だ立場跡だと史跡には事欠かない。

狼川を渡ると目の前に池が現れた。池にはこんもりとした木々の島が浮いていて小橋が掛かっている。

弁財天神社。池に浮かぶ木々の島の中に鳥居が見える。小橋を渡り入ってみようかとも思ったが、なんとなく先へ進む。

野路「萩の玉川」。過去にはここ野路に宿駅があったそう。

上北池公園を突っ切り、1号線を横断する。なかなか信号が変わらない。右手に茂る森は矢倉稲荷神社。

草津宿 名物立場

歌川広重 東海道五拾三次 草津宿 保永堂版

「うばもちや」の看板を掲げるこの店は東海道から矢橋の船着き場への分岐点に建っていて、画の右方に見える道標から画の奥へ向かう道が琵琶湖の船着き場に向かう道にあたる。この店は名物の姥が餅を売っていて多くの旅人が休憩している。立場茶屋を兼ねていた店は大きな造りで、左側に画かれた庭は風流を尽くし、身分の高い武家はこちらに通され庭を見ながら餅を食べていた。立掛けられた長鑓が武家の客が居る事を示している。街道には5人がかりで疾走する駕篭が画かれている。

草津宿の町はずれの矢橋湊へ曲がる角にある名物立場の「うばが餅屋」は、どうやらここ瓢泉堂が現在の場所のようだ。軒下には右やばせ道と刻まれた標石が立っていて琵琶湖の湊、矢橋の渡しを案内している。矢橋の渡しは琵琶湖を大津まで結ぶ渡しで、急がば回れの語源になったそう。歌川広重の浮世絵に似せようと、たまたま自転車で通り掛ったおっちゃんを街道を行き交う早駕籠に見立てて撮ってみる。

東海道名所図会,上冊 葵文会翻刻葵文庫発刊 国立国会図書館デジタルコレクション

歌川広重は東海道名所図会の挿絵をほぼそのまま拝借してしまったのか、はたまた実際に旅して実際に存在した同じ茶屋をモチーフにしたのか、そんな事を考えるのも楽しい。

瓢泉堂の軒下に立つ標石には、右やばせ道と刻まれている。

草津名物うばがもち。ひとくち大のこし餡の中には柔らかいお餅。伊勢の赤福に似た感じ。

ほどなく右手に古川酒造と書かれた酒屋が現れる。明治以前からの酒蔵のよう。「天井川」という名の日本酒は最近になって地域限定酒として製造されている。味わってみたいが早朝のため開いてないし、そもそも自転車なので今日は飲めない。我慢して先に進む。

草津川に掛かる矢倉橋。この橋の東詰めに京方見附の黒門があったようだ。

草津宿

上段:今昔マップon the web 明治25年測図 明治28年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、草津宿には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒、家数586軒があり、東海道と中山道との分岐点として多くの旅人で賑わっていた。江戸日本橋まで、あと119里18町1間。

草津宿の道路はカラー舗装され、旧家古民家をお店に改修したりと観光地化されている。電柱と電線がなければもっと良いのに。

太田酒造は江戸城の築城に携わった太田道灌を先祖に持ち明治7年創業の酒蔵。朝早くて開いてない。

FM草津73.5MHz。朝早くて開いてない。

ベーカリー&カフェ「脇本陣」。朝早くて開いてない。

草津本陣跡。江戸時代の本陣は、大名・公家や幕府役人などの限られた人々だけが利用できる施設だった。ほとんどの宿場に1軒~数軒が置かれ、宿泊や休憩を受け入れていた。幕府から「本陣職」を拝命した当地の家によって営まれ、草津宿には建物が現存する「田中七左衛門本陣」と、「田中九蔵本陣」の2軒があった。この現存する草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきた。また、いつの頃からか材木商も営むようになり、江戸時代には田中九蔵本陣と区別して「木屋本陣」と呼ばれていた。

本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所や公民館として使用されていが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年(1949)に国の史跡に指定された。現在、全国に残る本陣の中でも最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えている。

 

国の史跡に指定。ここ草津本陣は東海道で二箇所しか残っていない本陣のひとつ。今日は朝早過ぎて開いてない。残念!

しかも全国に残る本陣の中でも最大規模。また今度、開いている時間帯に来てみよう。

ということで、後日に草津本陣に再度訪問した。

表門から入ると白砂が敷き詰められている。

料金240円を払い式台付きの玄関から本陣内に入る。

15畳ほどもある玄関広間。

玄関広間には、関札が展示されている。関札は本陣に休泊している者が誰なのかを知らせるための札で、本陣の表門脇や宿場の入口に掲示していた。草津宿本陣には約460枚の木製関札、約2,900枚の紙製関札が保存されている。

草津本陣の館内案内図。

畳廊下。上段へと通じる廊下だが、襖により間仕切りすることができ、利用人数が多い時には部屋として使われていた。通常本陣には30~40人が宿泊するが、畳廊下を間仕切りし部屋として利用すれば70人ほどが宿泊できた。

座敷の最も奥にある上段の間は、本陣で一番格式の高い部屋。一行の主が休憩や宿泊するための部屋。

上段の間の中央には「置畳」と呼ばれる二畳分の分厚い畳が置かれている。格天井が設えられ、床の間・違い棚・書院を備えており、他の部屋と比べて豪華な造りとなっている。

畳敷きでションベンするにはとても抵抗を感じるのは自分だけ?

上段雪隠。畳敷きで踏ん張るのはとても抵抗を感じるのは自分だけ?

上段の間から望む庭園には築山があり和む。殿様はこんな風景を眺めていた。

庭園の脇にある湯殿。主客専用の風呂で、湯船の大きさに対して部屋が広いのは、外からの攻撃が届かないようにするためだった。床は板張りで排水用の溝が切られている。

釜の下から火を焚く五右衛門風呂ではなく、湯は屋外にある「湯沸かし屋形」で沸かしたものを湯船まで運び入れていた。

台所土間には一度に多人数の調理ができるように、五連式のカマドなどを備えている。

一番大きい釜とその横の釜の2つで、一度に30人分の食事を準備することができた。

天井川の旧草津川の下をくぐるトンネル。トンネルの上ではおばあちゃんがお散歩休憩中。

トンネルの入口手前の左側には高札場跡が復元されている。

旧草津川の下のトンネルをくぐる。

トンネルをくぐったその先はアーケード街になっている。商店街の途中まで進み中山道の文字を見て間違っていることに気付きUターンする。

再度トンネル手前まで戻り右折する。よく見ると追分道標が建っているじゃあないか。右東海道いせ道、左中仙道美のぢ、と刻まれている。なるほど、直進すると中仙道六十九次、岐阜県、長野県、群馬県、埼玉県を通り東京まで続く。東海道は右折し草津川に沿って進んで行く。今日は東海道五十三次の旅、右折する。

東海道・草津川の渡し場。天井川だった草津川には、もはや川の流れはなく遊歩道になっている。

国道1号線を越え、草津川沿いを進む。推定樹齢150年のいろはモミジ。

新幹線高架をくぐり、足湯のある酒屋菊の水を過ぎると、目川立場。往来する旅人の休憩所として江戸幕府により建てられた立場茶屋で、地元産の食材を使った菜飯と田楽が独特の風味で東海道の名物だった。田楽茶屋は古志ま屋と元伊勢屋、京伊勢屋の三軒。

田楽茶屋の古志ま屋と元伊勢屋跡には石碑のみ建ち、茶屋などない普通の住宅地。

石部 目川里

歌川広重 東海道五拾三次 石部宿 保永堂版

石部の画は草津宿近くの目川立場。菜飯と豆腐の味噌田楽が名物。本居宣長や大田南畝らも大変美味であったと日記に書き残している。

草津宿からほど近い目川立場田楽茶屋の古志ま屋跡と元伊勢屋跡。歌川広重の東海道五十三次では次の宿場石部がなぜかここ目川立場の茶屋なんだと。草津宿の近くの目川がなぜ石部宿として画かれたのだろうか。

東海道名所図会,上冊 葵文会翻刻葵文庫発刊 国立国会図書館蔵

草津宿に続き石部宿の画も東海道名所図会の挿絵と同じ茶屋がモチーフなのだ。同書を開いたとき目川の茶屋の挿絵が左側で右側には石部宿の説明が書かれている。広重はそれを見て目川の立場が石部宿にあるのだと誤解したのかもしれない。目川は石部宿ではないという痛恨のミス! パクリ&ミスがバレてしまったという今もよく聞く話なんだろうか。そんな事を考えると、歌川広重は現地を訪れてなのか、ということも想像できてなんだか楽しい。

歌川広重が石部宿だと思っていた目川の立場を出発し、あらためて本当の石部宿を目指す。

目川ひょうたん。この辺りも旧街道らしい旧家が軒を連ねている。

葉山川を越える頃、前方にもっこり山が見える。三上山という山だが、やっぱり別名は近江富士という。

石碑の立つ近江鈎の陣所跡や標石の立つすずめ茶屋跡を過ぎ、手原の町並みを走る。旧家が続き趣がある街道筋だが電柱と電線がどうにもこうにも残念だ。旧街道は電柱の地下化や標識の制限などもっと推し進めるべきだ。

手原醤油。軒の屋根が垂れ下がっているのが印象的だ。

五葉の松。

六地蔵一里塚を過ぎた辺りから、農村風景に変わってくる。田植えが終わり、水田に逆さもっこり山が映る。もっこり山は三上山といい、別名はやっぱりな感じの近江富士。

旧和中散本舗。豪商だった大角弥右衛門家の邸宅。和中散という薬を旅人に売り、とても栄えた。和中散は徳川家康から直々に付けられた名前だと。

前方に名神高速が見えてきた。右側の畑に植えられた茶色いものは麦。

JR草津線が旧東海道のすぐ際を走る。深緑一色に塗られた113系が触れそうなくらい近くを目いっぱい加速していく。最近のJR西日本京都支社はこのカラーリング。京都だけに抹茶や木の葉など「和」のイメージらしいが、実のところは一色塗りによるコストダウンじゃあなかろうか。こげ茶色の帯でも巻くと高級感が出るのにな。