磐田から袋井宿、掛川宿

今日は、浜名湖に浮かぶJR弁天島駅からスタートし、舞阪宿、浜松宿、見附宿と進んできた。浜松で餃子を昼メシにしたかったが行列で断念。磐田を後にし、ハラ減りで進んでいる。

三ヶ野からの下り坂、明治の道、緑のトンネル。昔の風情を期待して坂道を下って行く。

昔の風情を期待したが、現れたのはラブホ、シルビア、ご休憩3,700円也。

シルビアを下った先に旧東海道の坂道と合流。もう一度この坂を登ろうかとも思ったがやめた。

旧街道の松並木にはアメ車が似合う。

太田川を渡るともうすぐ袋井市。

武田信玄の大軍と徳川家臣の内藤信成が戦った「木原畷の戦い」の舞台となった木原畷古戦場を過ぎると木原一里塚が現れる。

袋井宿

上段:今昔マップon the web 明治23年測図 明治25年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、袋井宿は、本陣3軒、脇本陣なし、旅籠50件、家屋195軒であった。東海道の他の宿場より少し遅れて設置された。江戸日本橋まで、あと58里35町45間。

宇刈川にかかる御幸橋を渡り、袋井宿の中心へと進んでいく。昔は中川橋という名だった。

御幸橋の東側には棒鼻や高札場が再現された本町宿場公園。

袋井宿は江戸日本橋から数えても、京三条大橋から数えても二十七番目の宿場町。東海道五十三次のちょうど「どまん中」の宿。

袋井宿東本陣跡。

浜松餃子が食えず、それなら袋井名物「たまごふわふわ」を食おうと、ここまで昼メシをガマンしてきた。「たまごふわふわ」は、最近できたご当地B級グルメではなく、1626年京都二条城にて開かれた将軍家の饗応料理の献立の一品でもあり、当時は武士や豪商が食した江戸時代の名物料理。 材料は「卵」と「だし汁」だけのシンプルな料理だが、「ふわっ」とした食感と風味豊かな味らしい。餃子の口からたまごふわふわの口になる。

なんてこった!「たまごふわふわ」が食える「とりや茶屋」は準備中。ほかの店も開いてない。今は15時、昼もとっくに過ぎ、時間が悪かったようだ。

ハラ減りで東海道どまん中茶屋に到着。気の良いお母さんとお父さんに呼び入れられる。何か食べるものありますか?

袋井 出茶屋ノ図

遠景に宿場が見え、大きな木の下に傍示杭が立っていることから、宿場の入り口付近にある茶屋の様子を描いている。簡易な葦簀掛けで設けられた茶屋には手ぬぐいを被った女が石を積んだかまどで木の枝から吊るしたヤカンの湯を沸かしている。客は定紋の腹掛けをした飛脚と二人の駕籠かき。駕籠かきの一人はキセルを吹かそうとかまどから火を取り、もう一人は駕籠にもたれてうたた寝をしている。立札には小鳥がとまり、奥に広がる田園風景と相まってのんびりとした様子が伝わってくる。

東海道どまん中茶屋は袋井市役所の近くにあり付近は住宅地。立地条件はまったく違うが広重の画に寄せる努力がものすごい。

お茶をお持て成しされ、しばし雑談にふける。「浜松餃子」も「たまごふわふわ」も食べそびれ、ハラ減り全開なのをお母さんに訴えておく。

東海道どまん中茶屋にある、広重の画に寄せる小道具 その1。

広重の画に寄せる小道具 その2。

どまん中茶屋のお母さんに別れを告げ、松並木が残る街道を進む。

東海道五十三次 どまん中 東小学校。この町の「どまん中」のフィーチャーぶりはハンパではない。

松並木は続く。

富士浅間神社。富士山は見えない。

そしてまた松並木は続く。

周りが田んぼの松並木だと昔の東海道が想像できる。でも電柱がジャマ。

まだまだ松並木は続く。

掛川宿

上段:今昔マップon the web 明治22年測図 明治24年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、掛川宿は、本陣2軒、脇本陣なし、旅籠30軒、家屋数960軒だった。室町時代より掛川城の城下町であり江戸初期に山内一豊が城下を整備した。秋葉山大権現への参詣客で賑わっていた。江戸日本橋まで、あと56里19町45間。

もうすぐ掛川。旧街道の雰囲気が増してきた。

あられ専門店の平松商店。大正四年創業の老舗、温度や湿度、焼きの入れ方など毎日の状況に合わせて微調整が必要な繊細な技術はなお進化している。でも今日は休みのよう、残念。

あられ、おかき、せんべいには目が無い。スーパー、コンビニ、百貨店に行くたびに物色するのだ。

掛川 秋葉山遠望

歌川広重 東海道五拾三次 掛川 秋葉山遠望 保永堂版

掛川宿の西を流れる倉真川に架かる大池橋のたもとから、北西の方角を見た視点で描かれている。手前の常夜灯が秋葉山大権現へ続く秋葉道を示している。旅の僧と行き合った老夫婦が深々とお辞儀をしている。遠景の秋葉山は岩山のごとく描かれているが、実際は9里半も北にある。枠をはみ出て空高く舞い上がった遠州凧と、糸が切れて飛ぶ凧が、風の強さを物語っている。端午の節句に行われる遠州凧と田植えをする人びとから季節がうかがえる。

現代の大池橋は車も多くコンクリート製の雑な橋。広重の画とは逆方向になってしまったが、帰宅に急ぐチャリンコ高校生を撮ってみる。最近の子供達は凧揚げなんてしないよな。

街道の先に夕日に染まる掛川城が見えてきた。

逆川に架かる橋の上から掛川城を狙ってみる。

こんもりとした丘の上に天守閣が聳え立つ。

残念ながら閉館時刻を過ぎ、チケット売り場のお姉さんはご帰宅の準備中。

掛川城は、室町時代に駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが始まり。しかし、今川義元が桶狭間で討たれると今川氏は力をなくす。1568年、武田信玄に追われて掛川城に逃げ込んだ今川氏真を徳川家康が攻め、半年に渡る激しい攻防戦の結果、家康は掛川城を手に入れた。

太鼓櫓

現在の掛川城は平成6年4月に、日本初の本格木造天守閣として復元されたもの。天守閣の再建にあたっては、山内一豊が築城した高知城を参考に、残された図面に基づき、樹齢300年を越える厳選された青森ヒバを用いている。

二の丸御殿から天守閣を望む。

二の丸御殿は、時の城主太田資功によって、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建された。安政2年から明治2年(1869年)までの14年間は掛川藩で使われ、廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附され聚学校として使われた。その後も女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けた。現存する二の丸御殿は全国で二条城とここ掛川城のみ。国の重要文化財であり、現代に残せたことに感謝である。

御書院上の間。

掛川城下には土産物屋が並ぶ。

連雀を掛川駅方面に進む。結局今日は昼メシ抜きで来てしまった。さあ、晩ご飯は何にしよう。そしてどこに泊まろうか。未だ宿無しなのである。

JR掛川駅。どうやら掛川の名物料理は「いも汁」らしい。でも、いも汁の口にはならない。

というわけで、電車で浜松まで戻ってきた。青春18きっぷなので24時までJR乗り放題。

自転車は掛川駅前に置いてきたので歩きで肴町、鍛冶町、千歳町をブラブラ。

大工町にある巴湯。まずはひとっ風呂アビて、餃子とビールで洒落こむのだ。

昭和の香りがする銭湯。番台に座りたいもんだ。ケロリン桶には関東サイズと関西サイズがある。関東のA型は重さ360g 直径225mm 高さ115mm、関西のB型は重さ260g 直径210mm 高さ100mm。ここ静岡県のケロリンは果たしてどっち?

ひとっ風呂浴びて、生チュー&餃子を食らう。駅にある石松ぎょうざ、キャベツの甘味と豚肉の旨みが溶け合った、あっさりジューシーな餃子。

夜の浜松をウロウロ、ワクワク、ドキドキ徘徊。そしてコストパフォーマンス優先の旅には、やっぱり快活CLUBのナイト8時間パック。チェックインするなり朝まで爆睡。