浜名湖から舞阪宿、浜松宿、見附宿 その1

京都三条大橋から江戸日本橋を東海道五拾三次で目指す旅。前回は豊橋の吉田宿から半日歩いて浜名湖に浮かぶJR弁天島駅で終了した。豊橋で自転車をパクられ、しょうがなく歩いてみたものの、足の指の激痛に耐え忍び、そして孤独感にさいなまれた。

そして夏が過ぎ、サイクリングには絶好の季節の秋が来ても東海道五拾三次の旅には出ない。なぜなら浜名湖までの旅費を抑えるため青春18きっぷのシーズンを待っていたから。とは言うものの、冬の青春18きっぷを使える期間は1ヶ月しかない。しかもなにぶん年末年始は公私とも多忙な時期、休みといえど泊りでふらっと出かけるのは容易ではない。はたから見ると突然に、しかし明日の天気はしっかり確認しつつ、そして半ば強引に、最速最短で行く事にした。

自宅の最寄駅から始発最速の乗り継ぎをしてもJR弁天島駅に着くのは午前10時44分。しかし大阪駅5時始発の京都行き各停に乗ることができれば午前9時34分着。この1時間10分の差は非常に貴重だ。しかし大阪駅までの電車は走っていない。ということで、JR大阪駅近くまで車で行くことにするが、駐車場代がバカ高い大阪梅田周辺には停めない。自転車で10分ほど離れた大淀近辺の駐車場代は24時間最大700円也。

午前4時30分。昨夜終電に間に合わず、タクシーでも帰らず、オールナイトで飲み明かしたサラリーマンたちが、始発電車の動き出すのを待つJR大阪駅。

酔っ払いしかいない事をいい事に、桜橋口のティファニーの看板前で自転車をバラし袋詰めにする。

大阪駅午前5時発京都行きの各停。座席はけっこう埋まっている。

京都駅で米原行きに乗り継ぎの予定だったが、先の各停が4分遅れたせいで乗り継ぎ失敗。30分後の長浜行き普通電車に乗る。何のために早起きしたのか、何のために大阪駅まで車で来たのか、何のためにちょっと離れた駐車場に停めたのか。この先、乗り換え回数も多くなり所要時間も増えちまう。

米原で大垣行き普通に乗り換える。

大垣から豊橋行き新快速に乗り、豊橋から掛川行き普通電車に乗り、10時25分、ようやく弁天島駅に着いた。地元の駅から電車に乗るより19分だけ早かった。19分のために駐車場代とガソリン代を余分に払う、気前の良い男。

舞阪宿

上段:今昔マップon the web 明治23年測図 明治25年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、舞阪宿には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒、家屋541軒があった。浜名湖に面した舞坂宿は対岸の新井宿とを連絡する「今切の渡し」の渡船場だった。江戸日本橋まで、あと67里16町45間。

弁天島駅から舞阪宿まで、橋を渡り浜名湖を見ながら進むとすぐに到着。

カモメがタワムレていたりと、穏やかな風景。電車が遅れた事など、なんて小さな事じゃないか。

舞阪宿には脇本陣が修復され現存している。この脇本陣は天保九年(1838年)に建てられ、旅籠屋の茗荷屋が務めていた。間口5軒、奥行き15軒、部屋数14室の建物だった。大正時代には役場として利用されていた。

玄関から坪庭、座敷、奥座敷そして奥の庭まで見通せる。

書院棟の上段の間。こんなところでくつろげるか?

畳敷きの厠(大用)。OBしたら大変だ。

畳敷きの厠(小用)。おっさんが使うと畳が大変な事になる。

脇本陣を案内してくれた、とても気の良いお母さん。半纏の背中には舞阪宿と染め抜かれている。

舞坂は漁港の町。

舞坂 今切真景

歌川広重 東海道五拾三次 舞坂 今切真景 保永堂版

浜名湖は明応の大地震で遠州灘と繋がり海水と混ざる汽水湖となった。東海道は海と繋がる陸の切れ目の今切を1里ほど船で渡っていた。その航路付近を描いた舞坂宿の画面手前には、遠州灘からの波除けのために打ち込まれた数多くの杭が描かれている。岸辺に筵の帆が立っている辺りが舞坂で、富士山が右端にあるので浜名湖を北に向かって望んでいる。中央の山々は庄内半島だろうが、実際には高く険しい山はない。漁をしている小舟はどうやらウナギを取っているようだ。

舞阪の坂を間違えた。舞坂脇本陣から水神宮の前を通り、漁船の並ぶ記念橋を渡る。漁港沿いの道を進んでいくと浜名バイパスの今切口に架かる浜名大橋が見えてきた。散歩しているおっちゃんに入り口を教えてもらい舞坂が一望できる岸壁から、ちょうど漁船が港に戻るところを撮影した。右端が舞坂宿、左端は今日の出発地弁天島。

舞阪の町並みを東へ進む。

舞阪には立派な松並木が残っている。

松並木は続く。旧東海道の風情が実感できる貴重な並木道。

立場跡。

国道257号線。マクドの傍にも立派な松が植わっている。

浜松宿

上段:今昔マップon the web 明治23年測図 明治25年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、浜松宿には、本陣が6軒、脇本陣なし、旅籠が94軒、家屋1,622軒があり、遠江、駿河国で最大の宿場だった。徳川家康の時代より城下町として発展し、浜名湖の北岸を通る本坂道の分岐点でもある。江戸日本橋まで、あと64里24町45間。

浜松市街地が見えてきた。おお!何だか都会だぞっと。

浜松は美女が多いのか。自転車女子も美形な感じ。

ここ浜松宿の本陣も都市部にありがちな石碑だけしかないの巻。伝馬町の川口本陣跡。

濱松 冬枯ノ図

歌川広重 東海道五拾三次 濱松 冬枯ノ図 保永堂版

徳川ゆかりの城下町である浜松の画には、画面右の奥に浜松城が描かれ三層の天守閣が見えるが、実際は17世紀には天守閣は姿を消している。画の中心に大木を配し、この木の下で寒空の中、下半身フンドシ一丁で焚き火にあたっている男たちと、子供をおぶりホウキを手に焚き火のために枯れ葉を搔き集めている女が描かれ、城下から離れた街道のひなびた様子がうかがえる。画面右手の松の疎林には立て札があり野口村のざざんざの松を描いているが、実際には東海道の街道から見える場所にはない。

出世街道から浜松城への登り口、市役所前の並木を中心に配して撮ってみる。通行人の兄ちゃんはフンドシじゃあない。

元亀三年(1572)徳川家康は三方原の合戦から返ってきた際、大きな松の木陰で休憩し鎧を脱いで松の木に掛けたことから、鎧掛松と呼ばれている。この松は昭和五十六年に植えられた三代目だってさ。

浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすそうに思えるが、四百年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している。野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しないで積む野面積みという方式。

築城当時の天守は第二代城主の堀尾吉晴により1590年ごろ築かれた説が有力。

現在の天守は昭和三十三年に復興天守閣として作られた。

若き日の徳川家康公の銅像。手にしているのは勝草というめでたいシダ。

浜松の繁華街、肴町、鍛冶町、千歳町をブラブラ。さてと昼メシは何にしようか。浜松の名物といえばウナギが頭に浮かぶが、餃子も有名のようだ。

浜松餃子を名乗る店は浜松市内に300店もある。ひとまず浜松駅の南側に店を構える「むつぎく」という定番の店を覗いて見るが、長蛇の列。こりゃダメだわと、あきらめて先に進む。でも、すっかり餃子の口になるの巻。