歌川広重 東海道五拾三次 自転車の旅
歌川広重の浮世絵、東海道五十三次を現在の風景と重ねながら、京都三条大橋から東京日本橋を目指す自転車旅。
ある日突然、自転車で四国遍路に出掛けたくなり、まずは弘法大師さんへご挨拶とばかり、西国街道で東寺に向かった。東寺から京都市内を徘徊、そして今、三条大橋のたもとにいる。歌川広重の東海道五拾三次の浮世絵と同じ構図で、現在の宿場の写真を撮りながら東京(江戸)日本橋を目指す旅を思い立つ。
一気には無理なので何日かで目指そう。
そして江戸に着いたら歌舞伎町で遊ぶんだ。
東海道は、律令時代に五機七道のひとつとして設けられたが、現在、旧東海道と呼ぶ道筋は徳川家康が慶長6年(1601年)に五街道整備をし、五つの街道と宿を制定したものだ。東海道は江戸日本橋から京三条大橋まで宿駅・伝馬制度を制定し整備された東海道は約490kmの道として三代将軍徳川家光のころ最終的に53の宿場となり、松並木や一里塚が整備され、東海道五拾三次と呼ばれるようになった。
大坂城が崩落すると徳川幕府は東海道を大坂まで延長する。江戸から来た街道は大津宿と京三条大橋の途中にある髭の茶屋追分から分かれ、伏見、淀、枚方、守口の4宿駅を通り大坂高麗橋までの東海道五拾七次が出来上がった。これは参勤交代の西国大名が京の朝廷と接触するのを防ぐ目的から、京の洛中を迂回させたいため伏見を経由するルートとしたようだ。
歌川広重の東海道五拾三次や十返舎一九の東海道中膝栗毛などの影響で、今も一般的に東海道といえば江戸と京を結ぶ五拾三次と広まっている。しかし実際は江戸日本橋と大阪高麗橋を結ぶ東海道五拾七次が正式なのだそうだが、この旅は歌川広重の東海道五拾三次の浮世絵と同じ構図で、現在の宿場の写真を撮りながら東京(江戸)日本橋を目指す。そして何度も言うが、
そして何度も言うが、江戸に着いたら歌舞伎町で遊ぶんだ。
京都鴨川の河原には散歩する人やデート中のカップル、イベントなんかの人で賑わっている。水路に張り出す納涼床も京の風物詩。遠くに東海道五拾三次の西の起点の三条大橋が見えてきた。
鴨川の河原に張り出す納涼床。床のお店で川面に吹く風で夕涼みしながら、美味い酒と肴を上品に味わうのが京都流。でも江戸時代末期まで三条河原は処刑場と晒し場だった。処刑場があったのは川の反対側、三条大橋の東詰だそう。文禄3年(1594年)伝説の大泥棒 石川五右衛門は三条河原で釜茹での刑となった。豊臣家二代目関白 豊臣秀次は文禄4年(1595年)高野山で自害したが首は運ばれ三条河原で晒された。その秀次の子供と正室側室侍女39名は市中引き回しの末に三条河原で処刑された。流された血により鴨川の水は真っ赤に染まったという。慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で敗北した西軍の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らは六条河原で斬られ三条河原で晒された。慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで敗れた新撰組隊長 近藤勇は江戸板橋刑場で斬首となり首は三条河原に運ばれ晒された。そんな悲惨な歴史の地だが、今は平和に満ちている。
京師 三条大橋
歌川広重 東海道五拾三次 京師 三条大橋 保永堂版
三条大橋を俯瞰した構図でその向こうには東山三十六峰を望む。その中腹に青屋根の清水寺の伽藍や八坂の塔が見える。八坂の斜め左下には四条の芝居小屋の櫓も見える。左の山裾に見える大きな青屋根は知恩院。中ほどの青い屋根は実際よりも大きく画かれた雙林寺。遠景の茶色くそびえる高い山は比叡山との事だが、実際はもっと左でこの方角には見えない。橋の上を行き交う人々の中には茶せん売りや被衣の女たちが画かれている。橋の支柱が木製で画かれているが、天正十八年に完成した橋は石柱で造られていた。広重が生存している時代はすでに石柱で造られた橋であった・・・
鴨川に掛かる三条大橋の北西側の河原から写真を撮る。浮世絵の構図はもっと高い場所からの視点で画かれている、近くのビルにでも昇らなければそのアングルでは撮れそうにない。遠くに東山のシルエットが見えるが、視点が低いので清水寺や八坂の塔は見えない。現在の橋は昭和25年に改修されたもの。欄干は木製で柱頭に擬宝珠が設けられている。橋脚は下半分がコンクリート製で上半分は石製となっている。
京師
上段:今昔マップon the web 明治42年測図 大正元年発行地形図 下段:Google Map 2017
東海道は三条大橋から三条通を東へ進む。蹴上で南へ方向を変え日ノ岡峠を越えていく。京から江戸まで126里6町1間、495.5km。江戸時代、慶安3年(1650年)の京の推定人口は江戸と同じ43万人。100年後の寛延3年(1750年)には37万人に減少している。江戸は122万人と人口爆発。
江戸時代の東海道と中山道の起点終点となる鴨川に架かる三条大橋。現在の橋は昭和25年に架けられた。室町時代初期には簡素な構造の橋だったが、本格的な橋梁は天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命により増田長盛が石柱の橋を架橋した。江戸時代には幕府直轄の公儀橋となり、洪水により流出すると幕府の経費で架け替えが行なわれた。
西詰めの北側から眺める。
橋の西詰め北側には、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造の際に橋の支柱として使用されていた石柱がある。石柱には天正十七年と刻まれている。
橋の擬宝珠は、天正18年(1590年)に造られた物と、昭和25年(1950年)に造られた物とが混在しているらしい。
青銅で作成された擬宝珠には,「三条大橋は豊臣秀吉の名のもとに増田長盛 が奉行となって天正十八年正月に日本で初めて石柱橋として架けられた」という内容のことが刻まれている。
三条大橋の高欄は「擬宝珠高欄」と呼ばれる形式で社寺建築の階段や縁側を模したものであり、多くの公儀橋に用いられている。
擬宝珠は高欄の親柱,袖柱,中柱の上に設置される装飾金具で12基設置されている。
橋の北側西詰めから2個目の擬宝珠に刀で斬り付けたかのような傷が刻まれている。元治元年(1864年)に起こった池田屋事件の乱闘により付いた刀傷というウワサだが、真実のほどは分からない。観光客が傷跡を触るものだから、傷跡の周囲がこすれて地金が出ている。
豊臣秀吉により架けられた当時の石柱が、今も下流側に7基使われている。
豊臣時代の石柱はコンクリートの柱とは明らかに質感が異なり、石をノミで削り出したゴツゴツとした表面なのですぐに分かる。
いよいよ、お江戸日本橋に向けてペダルを踏み出す。外国人観光客が多い三条大橋を渡り、三条通りを東の方角すなわち江戸方面へと走る。振り返り三条大橋東詰めより木屋町通り方面を望む。
京都の旧街道マップはこちらが便利。PDFをダウンロードして、印刷できる。
三条大橋から三条通りを東へ進むと古川町商店街がある。商店街を少し入ってみると提灯がいい感じ。生ビールのノボリに誘惑され、早くも挫折の予感がしてきたが、ここはガマン、再び自転車で進む。
老舗のお店だろうか。三条通りには、こういった商家が軒を連ねる。
白川通り。柳の枝葉が涼しげではあるが、自分は汗だく。少し入ったところに明智光秀の首塚がある。粟田口で晒され、ここに埋葬された。
三条通りは、お店や町家が並ぶ通りだが、緩やかな上り坂である。真夏の暑さで汗が噴出す。
ウェスティン都ホテルを右手に見ながら緩やかな上り坂を進む。
蹴上交差点を右に曲がる。道路下には年代物のレンガ造りの建物。琵琶湖疏水を使った水力発電所のよう。
地下鉄東西線 蹴上駅の向かい側にある南禅寺に通じるトンネル。トンネル内部は「ねじりまんぽ」というレンガをらせん状にねじって積み上げている。トンネルの上は琵琶湖疏水のインクラインってやつだ。
両側から山が迫り、蹴上浄水場の横を進むときには、日ノ岡峠へと上り坂はさらに角度を増してきた。汗がさらに容赦なく噴き出し、スピードは極めて遅い。対向して来る自転車は気持ち良さそうに下って行く。
前を行く自転車もがんばっている。暑さで自転車を降りたくなるが、押して歩くほどの勾配ではない。このあとの下り坂のご褒美のために、ここはがんばろう。
日ノ岡峠の頂上を越え、下り坂を楽しんでいると、東山花鳥霊園前にある荷車のモニュメントに出くわす。当時は石のレール「車石」を敷き詰めた上をこんな荷車が京へ物資を運んでいた。
ここから先、旧東海道の雰囲気が残っている。
三条通りを下に見ながら、山裾にへばりついた様な細い街道を進む。
昔は京都へ向かう最後の峠越えで人や荷車の往来で賑わった道だったのだろうが、今は山あいの住宅街となり、道行く人影も無く寂しいかぎりだ。
細い下り坂を控えめなスピードで進んでいく。遠くに山科の町並みが見える。
まもなく三条通りに合流すると、上円下方墳の天智天皇陵が鎮座する。天智天皇は三十八代天皇で大化の改新を実行した中大兄皇子のこと。
JR東海道線の高架をくぐり、その先を左折すると旧街道が再開する。ビルが増えてきたなと思うと、まもなく山科駅前だ。
京阪山科駅。JR山科駅は京阪山科駅の奥にある。
山科地蔵徳林庵。六角形のお堂の六角堂には山科廻地蔵を安置している。周りには井戸や茶釜やベンチなどあり歴史ある憩いの場のよう。
京阪四宮駅前を過ぎ京風の住宅街を進む。この先は織田信長も恐れた逢坂山の峠である。峠を越える事を考え、今のうちにドリンクを補充しておきたい。左手にスーパーを見つけ中に入る。スーパーフレスコの店内はギンギンに冷房が効いていて、買うものはドリンクだけだがしばし店内をうろつき涼を得る。気が付くと、ずいぶんと時間がたっていた。日焼け止めを塗り直す。今日は本当に暑い日だ。ギンギンに冷えた店内の涼に後ろ髪を引かれながら炎天下へと戻る。いつのまにか滋賀県(近江の国)に入っていた。
スーパーフレスコの横から小関越えの峠道が分かれている。小関越えの峠道を進んでも大津宿へ行けるが、ここは本道の逢坂越えで行こう。
滋賀県(近江の国)の旧街道マップはこちらが便利。PDFをダウンロードして、印刷できる。
この先旧街道は国道1号線のコンクリート壁で分断され、反対側に続いている。近くに名神高速の京都東インターと国道1号線と湖西道路のジャンクションがあり、この付近はハイウェイの様な自動車専用道路となっている。びわ湖バレイにスキーに行くときに京都東インターで降りて湖西道路に向かう道だな、などと思いながら魚の焼ける美味そうな匂いがする角の総菜屋の前で地図を確認した。しかしどう見ても国道1号線を横断できない。一号線沿いを少し反対に進むと、高架の下をくぐり向こう側に行けるのではと思い行ってみるが、バス停だけで道路を横断できそうにない。
よく見ると旧東海道マップと書かれた看板に歩道橋を渡るように描いてある。しかし階段だけの自転車道がない歩道橋なので登らない。車の事しか考えてないエリアだなと、国交省に文句をボヤきながら、進める方に進んで行く。
進める方に進んで行くと、いつのまにか国道1号線の本線に入ってしまっている。しかもこの先は合流区間となっていて、制限速度の3割増しくらいで途切れ目無く流れてくる車で危険極まりない。歩道橋を担いで登ればよかったと後悔する。が、かなり前の方を、自転車に乗った女子高生が走っている姿が見えた。女子高生が行けるのならと進んでみるが、すでに女子高生は道路沿いの緑地に自転車を乗り入れている。合流区間を目の前にすると、ますます危険を感じ進むのをやめた。
Uターンし階段だけの歩道橋まで戻る。しんどいが自転車を担いで登り、足元がフワフワする歩道橋を渡る。下を見ると国道1号線と分岐合流する161号線で車線数が多くとても交通量が多い。歩道橋にして正解だった。
歩道橋を降りると追分の街並が続いている。騒音の国道1号線とは一転、静かな街道沿いに時代を感じる家々が点在している。
一枚杉の雨戸が美しい旧家が残る。良い雰囲気の街道だ。
閑栖寺の門前には東海道と刻まれた標石と車石が並んでいる。車石とは米や物資を運搬する牛車の通行のために板状の花崗岩を敷き詰めた石の事で、京都三条大橋と大津八丁筋の三里(12km)の道に牛車専用道路として車道と呼ばれた道が存在していた。それまで逢坂峠や日ノ岡峠といった通行の難所では雨でぬかるんだ坂道を通るのは大変な事だったのが、車石のおかげで楽に通れるようになった。この追分付近は京に向かって右側が牛車用の道で、左側が一段高く造られた人や馬が通る人馬道だったそうだ。
閑栖寺の境内には当時の車道を復元していると案内板に書かれている。しかし門には柵が閉じられており外から境内を覗き込むが、近くでぜひ見てみたい衝動に駆られ恐る恐る境内に踏み入る。1.5mほどの幅で車石が敷き詰められており2mほど牛車道が再現されている。石には車輪の轍が刻まれていて牛車が溝に乗って通行していた様子がとてもよく想像できる。土の道と比べると段違いに通りやすかったことだろう。
閑栖寺にある車石で舗装された牛車道を往来する絵がある。当時の雰囲気がよくわかる。
閑栖寺を後にし、すこし坂道を行くと伏見街道の分岐点。ここが髭の茶屋追分。向かって右が京方面。左が伏見街道で奈良や大坂へと続く東海道五十七次。
髭の茶屋追分には、かなり大きな道標と案内板がある。交差点の標石は交通事故でギブス状態。
昔は茶屋がたくさん並びかなり栄えていた様子が案内板に画かれている。今の人がいない街道からは想像ができない、ほんまかいな、と思うほどの賑わいっぷり。
江戸方面からの旅人が大坂を目指す場合、京には入らずここ追分から伏見街道を南西へ進み、京都東山を越え伏見から淀川沿いに大坂へ向かっていた。大坂高麗橋を西の起点とした場合、ここ追分から伏見、淀、枚方(牧方)、守口と4箇所の宿場があり、あわせて東海道五十七次というようだ。実際、江戸幕府は西国大名に対し参勤交代時に京へ寄らないように指示していた。これは大名が朝廷に近づくことを嫌ったため。
坂道を登りきると視界が開け、逢坂峠の山並みが目に入る。少し下ると旧街道は消え1号線の歩道を走る。この付近は左には京阪電車の京津線が走っていて、さらにその左には名神高速が通っている。V字の山間の谷間に騒音がこだましている。1号線はとても交通量が多く、上下線とも頻繁に轟音をたてて大型トラックが通過していく。
この京津線は京都の三条駅から大津の浜大津駅を結ぶ路線だ。京都市営地下鉄と直通の三条駅から電車に乗るとまずは地下区間を走る。そして山科駅の手前で地上に出る。住宅地を走り、追分駅を過ぎると山岳路線となり峠を越える。大津市内では上栄町駅から終点の浜大津駅まで路面電車となる。わずか30分ほどだが一度で4種類の電車に乗ったような気分になれる路線なんだと。
緩やかな上り坂を進むとやがて右手に月心寺が見えた。大津の宿場跡はまだまだ先だが、歌川広重の東海道五十三次の大津宿の版画は、走井茶屋の井戸のある茶店と、米俵を運ぶ牛車3台が描かれており、走井の井筒(井戸)は、現在も月心寺の中に残されている。中に入りたくて石段を登るが門が閉ざされている。隣接する蕎麦屋も残念ながら休みのようだ。
大津 走井茶屋
歌川広重 東海道五拾三次之内 大津 走井茶屋 保永堂版
大谷の立場にある走井茶屋は湧き出す清水で茶屋が営まれ名物の走入餅が店番の女によって売られている。茶店の軒先にある井戸脇には魚売りの姿や巡礼の女が画かれている。京の都が近くなり、地方からの物資が盛んに運ばれる様子を、米俵を運ぶ牛車3台が連なる事で表現されている。
広重と同じ構図で撮りたくて、交通量の多い1号線を横切り、月心寺横のそば屋を茶屋に、トラックを牛車に見立ててタイミングを見計らう。3台続けて来ると構図どおりだが、もっと下がらないと写真には納まらない。でも後ろは線路なのでこれ以上下がれない。
月心寺を後にし進む。この先も国道1号線の左側の路肩は狭く、真横を車やトラックが追い越して行く。踏切を渡ると旧東海道が残っているが、この界隈は、うなぎ屋「かねよ」の店が建ち並んでいる。1号線に合流する手前には逢坂山関所跡があり、石碑と灯篭が建っている。坂道を登ってきた疲労回復のため東屋でしばし休憩をとる。この先は下り坂となり、スピードの果実をむさぼる。この爽快感がなければ絶対に自転車で坂など登らない。
大津宿
上段:今昔マップon the web 明治42年測図 明治45年発行地形図 下段:Google Map 2017
天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、大津宿には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒、家数3,650軒が建ち並び、宿場町と琵琶湖の水運による物資が集積する港町を併せ持つ、大変賑わった町であった。14,892人が暮らす東海道五十三次の宿場で最も人口が多い町だった。江戸日本橋まで、あと123里6町1間。
国道1号線と別れ、踏切を越える頃には街の様相に変わってきた。坂道を下り、京阪線が路面区間となるポイントで電車が来るのを待ち撮影する。
一軒のお宅専用の踏み切り。
この付近が大津宿本陣跡だが、過去の風景はどこにもない。路面電車が走る緩やかな下り坂を走り降り、浜大津駅前を通り過ぎる。
とりあえず琵琶湖が見たくて湖岸に向かう。やはり滋賀といえば琵琶湖。遊覧船乗り場が見えたので自転車を停める。クルーズ船のミシガンが出航しようとしていたのでしばし眺める。
待合室に移動し人工の涼をむさぼる。周りはカップルだらけ。気がつくと20分ほど寝ていたようだ。寝る前から居た隣のカップルは変わらずいちゃ付いている。重い腰を上げ、旧東海道に戻るため大津港を後にする。
真夏のびわ湖の風はぬるかった。しかし左に比叡山、正面はびわ湖が広がり、その奥には伊吹山だろうか。右にひときわ背の高いビルが見える。後で大津プリンスホテルとわかる。天気もいいし景色は最高だ。
琵琶湖の湖岸が気持ちいい。気持ちよさに気を奪われ、大津プリンスホテル方面へ走ってしまった。湖畔にある遊びの森SL公園にはC57 128が保存されている。