西国街道 伊丹~西宮戎神社 その1

西国街道は古くは奈良や京都といった都と西国(中国地方や九州)との間の官人の往来や中国大陸や朝鮮半島からの使者の来訪、都造営の資材運搬、租庸調といった納税に利用されていた。戦国時代では軍の移動、豊臣秀吉の朝鮮出兵、西国の大名の参勤交代などでこの道が使われていた。時代とともに一般民衆も物見遊山で利用するようになり、物資の運搬、租税の徴収、文化交流など重要な役割を持つ街道であった。徳川幕府は江戸を中心とする世の中を構築したため、交通体系も江戸中心となり東西の本街道は東海道と大坂を起点とする中国道となった。そのため西国街道は格下げされ脇街道となってしまうが、現実的には大坂や京都を経由せずに最短ルートで江戸や東国に向かえるため、参勤交代や一般の人々も大いに利用されていた。幕末となるとさらに往来が激しくなり、禁門の変(蛤御門の変)や鳥羽伏見の戦など軍事的な重要性が高まっていく。しかし明治期となると参勤交代が無くなり交通量が激減する。また、文明開化によって乗合馬車や人力車、そして自動車や鉄道の開通により交通手段が大きく変わっていく。ついには交通量の増大により街道に並行し国道171号線が開通し、西国街道の役割は生活道路となった。

途切れ途切れとなった街道沿いには田畑が姿を消し新興住宅が建ち並んでいる。しかし沿道には旧家や古民家、社寺、道標が点在しており所々に昔の雰囲気を残している。

現在、大阪でもなく神戸でもない、漫才のネタにもある「ちゅーとはんぱ」な伊丹に住んでいる。西国街道はその「ちゅーとはんぱ」な伊丹を東西に横断しているので、西から攻めるか東から攻めるか迷うところではある。過去に西へ旧西国街道を神戸へ、東へは大阪の茨木市にある椿の本陣まで2回ほど。そして東寺を目指し、ついでに滋賀県の瀬田まで出かけている。(四国遍路参照)今回は時間が無いので伊丹から西へ西宮戎神社を目指す。

まずは有馬道から旧西国街道との辻、大鹿を目指す。

今日はクリスマスイブ。何が悲しくてクリスマスイブに一人で自転車で神社を目指しているのだろう。人恋しい今日この頃だ。

大鹿から西へ向かうと、陸上自衛隊千僧駐屯地がある。金網越しにトラックの写真を撮っていると、速攻で若い迷彩服の自衛官が二人近づいてきた。「写真、撮られましたか?」「トラックの写真を一枚」「向こうに戦車もあるので入られますか?」「いやあ、大丈夫です。」何が大丈夫なのか、よく分からん返事をしてしまった。自動小銃で撃たれるかと思ってしまうところが小心者だ。

この界隈、普通の住宅街だが旧街道だけあっていまだ旧家が点在している。

天神社

稲野小学校の校門前に標石が建っている。すぐ西宮とある。すぐは真っ直ぐのすぐ。クリスマスだが門松が置かれすでに正月の準備がされている。しかし一年がたつのは年を負うごとに早くなる。

伊丹を代表する企業、住友電工。広大な敷地に巨大な工場が建っている。右の建物はラウンドワン。ここ10年ボーリングは酔っ払っているときにしかしていない。以前はマイボールを持っていたっけ。

旧街道は西天神社の手前で国道171号線を横切る。歩道橋があるが自転車道は無い。

西天神社

なんとなく旧街道のルート上のような気がする、公認寺本商店街。シャッター率がひどすぎ。

おもてはこんな感じ。昭和の雰囲気がありありの公認寺本商店街

ふたたび国道171号線を南側に横切り南下する。新興住宅地を右折すると公園があり閼伽井の水なる池がある。新旧入り乱れている町並みだ。

みたび国道171号線に合流ししばらく旧街道は消滅している。昆陽里交差点にあるイズミヤ。がんばれイズミヤ。

西昆陽交差点で国道171号線は大きく南下していくが、旧街道は直進し武庫川の土手まで続いている。

武庫川を渡る171号線には甲武橋が掛かっているが、江戸時代には橋は無く、河原をはさんで街道の道筋が堤のところで途切れていた。この付近に武庫川を越える渡し場があった。西昆陽村に髭を生やした老人が営む茶屋があったことから髭の渡しと名付けられたといわれている。

武庫川の土手にはコスモス畑があり秋にはきれいな花畑なのだが、クリスマスイブの今はすっかり枯れ畑。

これは2年前に来たコスモス真っ盛りの頃。

時期がいいと一面黄色の花畑