文明元年(1469年)に、織田広近が応仁の乱の最中に砦を築いたのが犬山城の始まりといわれる。織田広近は、岩倉織田家の当主 織田敏広の弟である。
天文6年(1537年)清洲三奉行であった織田信秀の弟である織田信康は、木ノ下城から現在の犬山城の場所に「乾山の砦」を造営した。現存する天守の2階まではこのころ造られた。天文13年(1544年)織田信康が加納口の戦いで斎藤道三に敗れると、信康の子の織田信清が城主となる。永禄7年(1564年)織田信清は織田信長と対立して敗れ甲斐の国へ逃亡した。以降は、織田信長の配下である池田恒興や織田勝長が城主を務めた。天正10年(1582年)本能寺の変の後には、織田信長の次男である織田信雄の配下の中川定成が城主となる。
天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いがはじまると、元城主であった池田恒興の奇襲により羽柴軍に奪われてしまう。これにより羽柴秀吉は尾張国の前線拠点となった犬山城に本陣を敷いて小牧山城の徳川家康と対峙した。小牧・長久手の戦いの講和ののち、天正15年(1587年)に織田信雄に返還されて以降、三好吉房、石川貞清が城主となる。
慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦いでは岐阜城、竹鼻城などと共に西軍の拠点となるが、城主の石川貞清は敗北する。関ヶ原の戦いののち、小笠原吉次、平岩親吉、平岩吉範が城主となる。
元和3年(1617年)尾張藩付家老であった成瀬正成が城主となり、以降、成瀬家が9代に渡り城主となる。
明治4年(1871年)廃藩置県により犬山城は廃城となり、天守以外の櫓のほとんどが取り壊され、また、払い下げられた各所の城門は複数箇所の寺院に移築された。
明治28年(1895年)愛知県の所有であった犬山城は、旧犬山藩主の成瀬正肥氏へ、修復を行うことを条件として無償譲渡される。
昭和10年(1935年)犬山城天守が、当時の国宝保存法に基づき当時の国宝(旧国宝)に指定される。昭和27年(1952年)犬山城天守が、文化財保護法に基づき改めて国宝(新国宝)に指定される。
平成16年(2004年)に財団法人犬山城白帝文庫に所有権が移るまで犬山成瀬家当主の個人所有物であった。
尾張国犬山城絵図 一部分抜粋 天和元年(1681)犬山城白帝文庫蔵
Googlemap2020 「尾張国犬山城絵図」と同じアングルのGooglemapで見ると、南と西側の外堀は埋め立てられ、武家屋敷も住宅や駐車場となっている。さらには北側の木曽川沿いに道路が付けられ、城山にはトンネルが掘られてしまっている。内堀も埋められ道路になっている。
青春18きっぷでやって来たこの日は、岐阜駅で高山本線に乗り換える。その前にお昼ご飯のため途中下車してみる。岐阜の名物といえば「飛騨牛にぎり」やら「鶏ちゃん」やら「朴葉味噌」やら「高山ラーメン」やら「漬物ステーキ」やら「五平餅」やら。でもどれも岐阜市の名物ではないようだ。なので駅ビルの中にある吉野家でいつもどおり牛丼をシバく。
岐阜市内から犬山城までは、名古屋鉄道 各務原線の方が便数が多く犬山駅まで直通なので便利なようだが、青春18きっぷなのでJR高山本線で鵜沼駅まで行く。高山本線は電化されていないためディーゼルカーが活躍している。飛騨古川行き2両編成のキハ25は外観や車内は313系電車とほとんど同じだが、ガラガラガラガラというディーゼルエンジンの音と振動と排気ガスの香りがとってもよろしい。
JR鵜沼駅で降り犬山城を目指す。名鉄新鵜沼駅を越える渡り廊下から遠目に犬山城が見えている。
木曽川に掛かる犬山橋は2000年まで鉄道と道路の併用橋だった。
今日の木曽川は、豪雨の後だけに流れは激しく水位もかなり増している。
犬山城の上空をジェット戦闘機が爆音を立てて飛び去って行く。
木曽川沿いの小高い丘に建つ犬山城。丘の標高は88メートルだが川面からは40~50メートルぐらいの丘だろうか。
丘の上に高さ5メートルの石垣を組み、その上に高さ19メートルの望楼型天守が建つ。東西の面の大きな入母屋破風によりバランスがいい天守だ。
水位が増した木曽川の岩の上で休む鵜。
犬山城天守は、昭和10年(1935年)に当時の国宝保存法に基づき当時の国宝(旧国宝)に指定され、昭和27年(1952年)に文化財保護法に基づき改めて国宝(新国宝)に指定された。
当時は、松の丸、桐の丸、杉の丸と階段状に連なっていた曲輪に、今は猿田彦神社、三光稲荷神社、針鋼神社を奉ってある。
着物女子を眺めつつお参りする。
樅の丸と杉の丸を貫く大手道を、本丸を目指し登っていく。
本丸前の城門で入城料を払うなり。
本丸に到着。でも桜の木が茂り、天守ドーンとはいかない。御殿や櫓、門や土塀といった遺構が残ってない、再建できてない、なので殺風景だ、という事で木を植えよう、そして桜の名所にしよう、と言う考えで木々を植えたものの、成長しすぎてせっかくの天守が隠れて見えない、といった城が多い事多い事。
三重四階地下二階の天守は、付櫓の付いた望楼型。さほど大きい天守ではないが、東西の面には入母屋破風、南北の面には唐破風がいいアクセントとなりバランスが取れている。最上階の華頭窓といい素晴らしい天守だ。
あぁ、せっかくの貴重な国宝現存天守の前に無粋なドームテントを建てるセンスの無さ。これはどうにか撤去改良してほしい。
天守南西側から見ると西面に平屋の付櫓があることが分かる。天守台の石垣は野面積で築かれている。
天守南西側から上を見上げる。入母屋2重2階の建物の上に望楼部を載せている。南面にも平屋の付櫓がある。
天守南東側から見ると、東面には両開き窓が並び石落としが張り出している。
南東側の付け櫓を見上げる。敵の侵入を側面から攻撃するためのデッパリ部分。
横を歩く親子連れのお嬢ちゃんは、「ヒゲを生やしたオジサンみたい~」と言っている。なるほど、鼻ヒゲの下の開けた口からファイヤービームを噴きそうなツラ構えだな。
無粋なドームテントをくぐり、南側の地下二階から入る。
階段は新調されている。
そして地下一階。ノミの削り痕が美しい立派な梁を目の前にできる喜び。
さすがは国宝、ホンモノの城。この雰囲気がたまらない。一階の周囲は幅二間ある入側をめぐらしている。
両開き窓から木曽川を眺めつつ、風を感じる。
一階の内部は四室に分けていて、書院造の「上段の間」は畳敷の座敷となっている。
「上段の間」は、押板床、違い棚、帳台構を備えている。
二階も周囲は入側をめぐらしていて、内部は武器庫となっていた。二階の武器庫を見下ろしながら三階へと上がる。
三階は破風の部分で、とたんに狭い室内となる。この窓が鼻ヒゲ下の口に見えていたファイヤービームが出る部分だな~などと思ったり。
こちらは入母屋破風の窓部分。
そして赤絨毯が敷かれた最上階の四階に登ってきた。南北に廻縁(ベランダ)への出入り口があるのみで、窓は無い。
南側は犬山の街並みが広がる。
目のように見えていた華頭窓。窓とはいうが開ける事はできず、窓のような飾りである。
南西側。
名古屋の高層ビル群がうっすらと見える。
北東側。木曽川の向こう岸は鵜沼の街並み。
東側。観覧車は日本モンキーパーク。
さて、城下町へと降りてきた。本町通りから犬山上を見上げるが、木々に隠れて天守がぱっとしませんなぁ。姫路城を見習って、樹木の伐採をするべきだと個人的に思う。
本町通りはノスタルジックな雰囲気の家屋が多く残っており、食べ歩きやお土産屋さんなどのお店が建ち並び、城下町の風情を感じられる。
旧磯部家住宅。幕末に建てられた江戸期の建築様式を持つ木造家屋。通りに面した建物は2階建てで、屋根は緩やかなアーチを画く「起り屋根」(むくりやね)。裏に続く建物は平屋の「バンコ二階」という造りになっている。
磯部家は江戸期から呉服商を営んでいた。
間口は狭く奥行きが広いいわゆる「ウナギの寝床」。中庭から裏座敷そして土蔵などが奥へ奥へと続いている。
五平餅食べて帰ろう。