かつて室町時代の松本の地は深志郷と呼ばれ、坂西氏が統治し居館を中心に人々が生活をしていた。永正元年(1504)その地に島立右近貞永が深志城を築き、これが現在の松本城の前身といわれている。
天文19年(1550)武田信玄は北信濃への侵攻の拠点として深志の場所を選び、武田氏の統治が32年間続いた。しかし、天正10年(1582)織田信長によって武田氏が滅ぼされると、木曽義昌、小笠原洞雪と城主が代わり、その後、武田に信濃から追い出された小笠原長時の嫡子である小笠原貞慶が深志城を奪還する。小笠原貞慶は深志を松本と改め、城郭と城下町の整備に取り組む。
天正18年(1590)豊臣秀吉の命を受けた石川数正が小笠原貞慶に代わり松本へ入ると、更なる城郭の整備と城下町の拡充に着手する。
まずは平成3年当時の入場券の写真から。
松本城旧景図 後藤新門画 旧藩士の後藤新門が幕末の姿を思いおこして明治30年頃に描いた絵。
享保13年秋改 松本城下絵図 一部分のみ抜粋
Googlemap2020 『享保13年秋改 松本城下絵図』と同じアングルのGooglemap航空写真を見ると、二重の内堀のうち南西の堀は埋められ住宅地となってしまっている。台形に掘られた外堀も北東の一部が残るのみ。残念。
https://matsumoto.photo/
立山黒部アルペンルート からの松本城
まだまだ昭和の時代を引きずる、平成3年(1991年)4月、若かった2人は親に内緒で、富山側から立山黒部アルペンルートを巡る旅に出る。大阪から今は無き「特急雷鳥」に乗ると思いきや、そうではなかった。
特急雷鳥に連結された「リゾート立山」は、富山駅から富山地方鉄道に乗り入れ終点の立山駅を目指す。
立山黒部アルペンルートは、標高3,000m級の峰々が連なる北アルプスを貫く世界有数の山岳観光ルート。その総延長は37.2km、最大高低差は1,975mもある。富山県側の立山から長野県側の大町市まで乗り物を乗り継いでいく。
「特急リゾート立山」で立山駅を降りると、500mも標高を上げる立山ケーブルカー、10m以上積もった雪を掘り下た雪の壁の隙間を行く高原バス、トンネル内を走るトロリーバス、ロープを支える柱が1本も無い日本最長のロープウェイ、そして黒部湖への最終アプローチの黒部ケーブルカーを乗り継いでいく。
立山ロープウェイは、ロープを支える柱が1本も無い日本最長のワンスパン式ロープウェイ。
黒部ダム。えん堤の高さ186mは日本一を誇り、長さ492mと左右のウイングが特徴の黒部ダム。観光放水で流れでる水量は毎秒10t以上。黒部川に建設された水力発電専用のダム。HPより
ダムの上をプラプラきょろきょろルンルンと歩いていく。ずっと乗り物に乗っていたので気分がいい。若い2人は青春を謳歌する。ダムを満喫したあとは、関電トンネルを電気バスに乗って扇沢へ。扇沢から路線バスで信濃大町駅、そして松本まで大糸線の電車で安曇野を走り抜ける。
美ヶ原温泉で一泊。夕食を食べている途中で写真を撮る。この当時、バエる写真を撮る習慣はまったくない。
翌日は松本城へとやってきた。この当時は「写るんです」という使い捨てカメラで撮ったフイルム写真。南西の方角からだと連結複合式の乾小天守、大天守、辰巳附櫓、月見櫓が見えカッコよろしい。ちなみに全て国宝。
松本城は真っ黒い城のイメージであったが、実際は白と黒の二色で構成されている。壁の下部は黒漆塗りの下見板で覆われ、上部分は白漆喰で塗られている。下見板は、屋根の庇では防ぎきれない壁の下半分を雨水から守るため取り付けられている。
「写るんです」なのでセルフタイマーも無く、誰かに撮ってもらう事も無く、お互いを撮り合う。
当時流行ったパノラマ写真を今の技術で縮小し歪みを取り除いてみた。西から見ると乾小天守と天守をつなぐ渡櫓も見える。渡櫓も国宝。
埋橋で内堀を渡り本丸へと入り進む。
月見櫓から天守一階を見る。中央の出っ張った部分は石落と呼ばれ、石垣を登ってくる敵兵に石を落としたり、熱い湯をかけたり、火縄銃で撃ったりして天守を守る仕掛け。
月見櫓でひと休み。
現存天守で五重の天守はここ松本城と姫路城だけ。とっても貴重なお城でした。
スボンにシャツをインする2人はとっても仲良さげではある。