続 泊りでへんろ 室戸岬へ Go ! その1

阿波の国(徳島県)最後の霊場 第23番札 所薬王寺をお参りし、まもなく土佐の国(高知県)に入ろうかという牟岐町まで進んだ秋の日。あれから春夏秋冬季節は過ぎ去り、11ヶ月もブランクが空いたお遍路自転車の旅。同行二人のお大師さんに、もう結願はあきらめたのか? と、問われている感覚が日に日に強くなってくる。東海道五十三次自転車の旅だ、世界遺産の旅だ、冬はスキーだ、春はキャンプだBBQだ、夏はトレッキングだダイビングだ、と遊んでばっかりではお大師さんに戒められてしまう。遊びと家族サービスと休日出勤の三両立を行いながら遍路旅のチャンスをうかがうが、猛暑酷暑の日が続き、やがて台風が日本列島を幾度も襲う。スケジュール表と天気予報とを睨めっこし、まさにこの日を逃すと年内は無理だな、という土日を利用して出かける事にした。

今回の旅の予定はこうだ。前回終了地の徳島県牟岐駅を自転車で出発、高知県に入ると太平洋の海岸線をひた走り室戸岬を目指す。室戸岬の発端に建つ第24番札所 最御崎寺、第25番札所 津照寺、第26番札所 金剛頂寺まで参拝し、奈半利付近で一泊する。二日目は第27番札所 神峰寺、第28番札所大日寺まで参拝し高知県後免駅までたどり着ければ、次回も移動が楽なので理想的だ。走行距離は、初日110kmと二日目55kmの合計165kmほど。距離はさほどのものでもないが、5ヶ所巡るお寺のうち3ヶ所が険しい山の上に建つというヒルクライムが待っている。さすが土佐高知は修行の道場といわれる所以なのである。初日は出発地点の牟岐駅まで移動をしなければならないのだが、110kmの走行距離と2ヶ所のヒルクライムを考えると、朝一番から走り始めたい。そのための移動方法を考えてみる。もちろん移動に掛かる費用は最小限に抑えたい。

高速バスに自転車の持込みが不可能になった今、公共交通機関で大阪から四国徳島に自転車ごと安く渡るには、JRの「青春18きっぷ」か、南海フェリーの「とくしま好きっぷ2000」しかない。今は「青春18きっぷ」のシーズンではないので、「とくしま好きっぷ2000」の一択となる。南海電車なんば駅20時10分発の特級サザン53号に乗れば、和歌山港を21時40分発の南海フェリー9便に乗船できる。徳島港着は23時55分。翌朝の徳島駅発の牟岐行き始発普通列車は5時44分発なので、それまでの5時間ほどを徳島大学前にあるインターネットカフェ「快活CLUB」で仮眠する。そうすれば牟岐駅着は7時48分なので、自転車を組立て8時にはスタートできそうだ。かかる費用は旅費3,460円とネットカフェ代1,543円なり。帰りは高知県後免駅を13時11分発の普通列車に乗れば、運賃6,200円で10時間後の23時には帰宅できる。

そんなつもりで会社を5時ダッシュの帰宅でもくろみ出発当日を迎えたものの、なんと仕事で小トラブルが舞い込んできた。なんてこったパンナコッタ。会社を出られたのは夜の8時を過ぎていた。予定していた21時40分発の南海フェリー9便にはもう乗れない。次のフェリーは夜中の2時40分発。これに乗るためには、地元の駅を22時40分発の電車に乗ればいいが、どう考えても慌ただしく、乗換えが綱渡りとなるし、風呂にも入れないし、なにより眠い。睡眠は、寝る遊ぶ食うの順で一番大事。

とにかく帰宅し、風呂に入り慌ただしく身支度を調える。ところが遍路道保存協会の地図が見つからない。地図なしで今回の行程を進むことになってしまった。事前準備の大切さは、いつもギリギリの段階になるまで気付かない愚かな自分に苛立ち、ますます出発時間が遅くなる。もう自家用車で行くしかない。

中国道、阪神高速北神戸線、神戸淡路鳴門道を乗り継ぎ、明石海峡大橋を渡り、淡路PAでトイレタイム。そして淡路島を縦断し大鳴門橋を渡ると四国に上陸する。徳島インターから高速を降り、夜中の徳島市内を走り抜け、途中コンビニに寄りながら国道55号線をひたすら南下する。

前回終了したJR牟岐駅には深夜1時過ぎに到着。人けの無い駅周辺をウロツクが、付近には2日間も車を停めておける所が無さそう。眠い目をこすりながらイイ案が無いかスマホで検索すると、この先の終点の甲浦駅前には無料駐車場があるようだ。ひとまず牟岐駅の駐輪場に明日の朝まで自転車を停めておき、甲浦駅まで車で移動し駅前の無料駐車場で車中泊しよう。そして車は2日間そのまま甲浦駅前駐車場に停めておき、甲浦駅から始発列車に乗り牟岐駅に戻り、自転車旅をスタートしよう。

真夜中の甲浦駅前にある無料駐車場に車を停め、常に車に積んでいる寝袋にくるまり朝を迎えた。駐車場には自分以外だれも駐車していない。大きな用事でトイレに行きたいのに、駅舎はカギが閉まっていて入れない。始発列車は来ないし、周りにトイレを借りられるようなところは何も無い。かなりなピンチ状態。

始発列車が到着すると、運転手さんが駅舎のカギを開けるというシステム。出発まで5分ほどしかないので、列車内のトイレで済まそうと車内に入るが、車内にトイレは無い。気のイイ運転手さんに声を掛けると、ようやく駅舎のカギを開けてくれ、慌てて駅舎のトイレに駆け込み用を足す。少しくらいは待っとくからナ~、と。甲浦6時24分発という遅めの始発列車の乗客は1名、そう自分だけ。

海部駅からここ甲浦駅までは阿佐海岸鉄道という第三セクターの路線。この先、室戸岬を経て土佐くろしお鉄道の奈半利駅まで路線計画はあるが、この乗客数では100年後も開通してないかも。

甲浦駅から途中の海部駅まで気のイイおっちゃんが運転し、海部駅からはJRの若い運転手に交代。30分ほどで、特急むろと2号が出発を待つ牟岐駅に到着。時刻は6時55分。

駐輪場には夜中に停めた自転車が夜露に濡れながらも無事ありました。自転車にまたがるも、おケツパッドを履くのを忘れていた。トイレで装着し、7時10分、秋晴れの牟岐駅から自転車を漕ぎ出す。

牟岐の町には古民家、旧家が残っている。町ナカには早起きのお爺ぃとお婆ぁしか見かけない。目が合うと会釈してくれる。四国の人はみんな良い人。

国道55号線を行くと、山々をトンネルでショートカットできるので近道で楽なのだが、あえて旧道を走り山を越えていく。牟岐町内妻の浜から海陽町三浦の浜へと続く海岸線は八坂八浜と呼ばれ、白砂青松の入り江と緑豊かな岬が交互に交錯し、紺碧の海と見事なコントラストをなしている、らしい。前回からのお楽しみだった場所だ。

山を登ると、美化センターの焼却場の隙間から海が望める。絶景を期待していたが、ちょいとイメージと違うぞ。

登り坂の後のご褒美は、下り坂のスピードという果実。下り坂を攻めすぎて、坂道の途中にいらっしゃる草鞋大師を通り過ぎてしまった。

山あいからの眺めはすばらしい。おすすめは絶対に旧道。

弧を描く内妻の浜。白砂ではないようだ。

朝日がとても気持ちいい。うっかり砂浜と海と朝日に見とれ、旧道への交差点を見落とし国道を進んでしまい、残念ながらトンネルをくぐる事になる。

その次ぎの岬には国道のトンネルをくぐらず旧道の坂道を行く。車も人もまったくいないので、ちょっとコワイ。

すると岬の上から太平洋が望める。あぁ、やっぱり旧道が正解だな。

ただ今、室戸阿南海岸国定公園、八坂八浜を満喫中。アップダウンでしんどいけれども、絶景を味わえて、トンネルなんかを行くよりも断然よろしい。

鯖瀬駅をディーゼルエンジンの音と煙をたてて出発していくJR四国カラーのキハ40。徐々に姿を見かけなりつつあるキハ40。

鯖大師本坊

鯖瀬の駅を右折すると鯖大師本坊。鯖大師本坊の歴史をHPから引用すると・・・ 長くて読めません。

 今は国定公園になって、立派な道に造り替えられている八坂八浜の道は、昔は大変な難所続きの厳しい道でした。その厳しい道、美しい道を、気高いお坊さんが通られました。今からおよそ千二百年も昔のことです。このお坊さんが、空海さま、お大師様であられたのです。お大師様は厳しい坂を登りつめたところで、ひと休みなさいました。すると、「空海よ!」誰かが呼ぶ声に、はっと目を覚ましたお大師様は声がした方を見つめました。青い海の上に白い雲が浮かんでいました。その雲の間に、ひとりのお坊様が合掌して現れるではありませんか。「空海よ!わたしは行基であるぞよ。そなたは末永く、人びとを救いつくすであろうぞ。」その雲の中のお坊様は行基菩薩様であったのです。行基菩薩様は、日本の仏教の基礎を固められたお坊様です。(たしかに、行基菩薩様がこの地にあらわれ、私を励まして下さった。この海辺は御仏の霊地に違いない!)お大師様は、改めて行基菩薩様が現れた海のかなたに合掌をささげました。その時です。パカ、パカ、パカ。坂を登って来る馬のひづめの音が聞こえてきました。馬の背には重い荷が積まれていました。「ごくろうじゃな。しばらく馬を休ませなさい。」お大師様は馬を引く馬子に声をかけられました。馬子は、よけいなお世話とばかり、馬のたづなを引き上げながら道を急ぎます。「お待ちな。馬は苦しいのじゃ。しばらく休ませるがよいぞ。何を積んだのじゃ、重そうじゃないか。」とお大師様は尋ねました。「塩鯖だよ。坊さんとは緑がないものよ。」と馬子の答えはつっけんどんです。「縁のあるなしはさておいて、一匹だけ私に施してくれないか。」とお大師様は言いました。馬子は答えようともせず、むりやり馬を引きずりました。疲れきった、かなしい目をして馬はお大師様をふり向き、ふり向きながら坂を登って行きます。するとお大師様はすくっとお立ちになって、その馬に向けて大きなお声で歌を詠まれました。「大坂や、八坂坂中、鯖一つ、大師にくれで、馬の腹やむ(病む)。」馬子は「施しなさいって、とんでもない!」こんなことを考えながら、坂をおりる馬子の耳にもお大師様の歌が聞こえてきました。その歌が聞こえる方を馬子がヒョイとふり向いた時のことです。バターッと馬が横倒れになって、もがき始めました。見る見るうちに、馬のお腹が山のように膨れ上がってくるではありませんか。「このままだと馬は死んじまうかも知れんな、塩鯖ぐるみ元も子も無くなるかも知れん。」馬子はまったく途方に暮れてしまいました。馬子は怖くなりました。施しなさいと言われてだまって通り過ぎたので、罰が当たったかも知れんと想い巡らしました。馬子は一番小さい塩鯖を選んで、それを手にして坂の下のお大師様の方に向いました。「先ほどはどうも失礼しました。どうぞこの鯖をお受け下さい。」謝りながら馬子が差し出す塩鯖を足もとに置いて、お大師様は馬子に水を汲んで来るように言いました。お大師様はその水をお加持して、「誤まりに気付いてよかったな。さ、この水を馬に飲ませるがよい。」と馬子に渡しました。さっそく、馬子がその水をもがいている馬に飲ませたところ、不思議です。馬はすっくと立ち上がってケロリとしているのです。馬子はお大師様に向かって、思わず手を合わせました。すると、もう一度お大師様がよまれる歌がきこえてきました。「大坂や、八坂坂中、鯖一つ、大師にくれて、馬の腹やむ(止む)。」歌のことばは同じように聞こえます。でも先の歌では“くれで”であったのが、こんどは“くれて”になっているのです。つまり先の歌の“くれで”は、“くれないで”の意味の“くれで”だったのでしたが、こんどは“くれたから”という意味の“くれて”になっているのです。ちがってきたのはお大師様の歌の意味ばかりではありません。馬子の心も変ってきたのです「悪うございました。おゆるし下さい。」と心から詫びる馬子に、「人間の欲は果てがない。その欲を引き締めなければならんのじゃ。馬の手綱を引くようにな。」とお大師様は言われて、馬子を引き連れて、一山越えた大砂の浜の法生島の波打ち際に立たれて、馬子の見ている前で、手にした塩鯖を海に入れ、加持祈祷をしました。すると、どうでしょう。とっくの昔に死んだはずの塩鯖が生き返ってきたのです。そして、ピンと背びれを張って沖の方に泳いで行くのでした。この不思議に目を見張っていた馬子は、その場で馬子をやめ、お大師様のお弟子にして下さいとお願いしました。それからは、お大師様と馬子の出会いの坂を“馬ひき坂”といい、塩鯖にお加持した海辺を“鯖生→鯖瀬”と呼ぶようになりました。馬子は、日ごと心を入れ代えた立派なお弟子になっていきました。体が丈夫なので、お大師様のご修行の手助けをしながら働きました。そうしたある日、「これでよかろう。そちは今日から私から別れて、馬と一緒に私たちが出会ったその坂に帰るがよい。」お大師様は、このように言いつけました。馬子は、始めはまご付きましたがやがて、「八坂八浜のあの坂に帰れとのお師匠様のお言いつけには、深いお考えがあるはず…」このように悟ることができました。そこで、「はい、お言いつけどおり、あの坂に参ります。体の方はまだまだ丈夫ですから、この馬と一緒にしっかり働いて、お寺をお造りします。大変な難所ですから、その道を通る人達に安らぎを与えるお寺をお造りします。」こう答える馬子は、もう立派なお大師様のお弟子になっていたのです。「よくぞ引き受けてくれた。あの坂の松はただの松ではないのじゃ、行基菩薩様がお植になった松。その松の木かげで私は行基菩薩の夢を観て、お言葉を頂戴したのじゃ。その地は御仏の霊地なるぞよ。」お大師様のお言葉は続きました。「これから、この道を御仏のお慈悲を求める遍路の人達が、永遠に絶えることなく、この霊地を通るであろう。道中の最難所のあの坂にお寺を造ることは、御仏のためであり、そのお慈悲をいただく、みんなのためなのじゃ。」お言葉を終えて、お大師さまは自ずからお作りになったご尊像をお弟子の馬子に与えて、行基菩薩様の御像とこの尊像を一緒に祀るように言い渡されました。 ご尊像を馬ひき坂にお運びした馬子のお坊さんは、小さな庵を造って行基菩薩様の御像と一緒に祀り、お寺の名を行基庵と名付けました。あの鯖瀬で塩鯖を生き返えらしたお大師様のお慈悲のお加持は、欲ばりの馬子の心を入れかえ、立派なお坊さんに生まれ返させたのです。そして、幸せな人づくり、幸せな家づくり、幸せな社会のために、お大師様の遍路の道を巡るお遍路さんを休ませ、慰め、励ます番外の札所として、行基庵は拝まれて来ました。その行基庵が、今日の鯖大師本坊なのです。行基菩薩様のお慈悲がお大師さまのお慈悲に結ばれて、ここの難所にこの霊場が生まれたのです。お大師様は、虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きんと言われました。そのお大師様のありがたいご誓願ににお加持いただいて鯖大師本坊は全国の皆様に、安らぎと励ましを送り続けているのです。

長くてすみません。

馬頭観音。八角形の観音堂。

大砂海水浴場。夏には海水浴客で賑わったんだろうが、この時期はだれもいない。

海鮮丼のノボリにつられて漁港に寄り道してみたが、営業時間は11時から20時まで、まだ開店していない。残念! 浅川の漁港町を過ぎ、まぜのおか方面へ山を越えて行く。そして海陽町の市街地へと入って行く。

海陽町の海岸線には大里松原という立派な松原が町を強風から守っている。松林の向こうにある海が見たくて少し寄り道。

長い砂浜の大里海岸、北東方面を望む。

同じ地点から反対方向を望む。砂浜には誰もいないと思いきや・・・

砂浜に等間隔で並ぶ釣り人の人影。この季節、浜釣りで何が釣れるのかな?

海部川を渡る女子高生。今日は土曜日、部活の朝練だろう。きっと高校を卒業したら東京の大学にいって彼氏と渋谷の109とか行くんだろう。

海部川は鮎釣りもできる自然豊かな川。きっと女子高生は、東京の大学にいって、彼氏ができて、そして就職して、結婚して、子供ができて、子供が成人する頃に、ふるさとのこの風景のもとに帰りたくなるんだろう。

愛宕山をかすめると那佐湾が左手に見えてくる。川のように見えるが入り江になった海。水はとてもとても澄んでいる。

那佐湾の奥へ奥へと進んで行く。

道の駅宍喰温泉とホテル リビエラししくい。ここでトイレと小休止。開店に向けて従業員のオバちゃんたちが準備や掃除で忙しそうだ。

カアナパリダイビングセンター。BSACのショップ。ダイビングとサーフィンショップだが、ホエールウォッチングや船釣りもできる。自分はPADIのダイバーだが、こんど潜りに来てみよう。

宍喰の町へと地図は誘うが、間違えて国道へと進路を取ってしまった。今日初めて出会った歩きお遍路さんに「今日はどこまで歩くンですか?」と聞くが、行き先の返事がなかなか言葉にならなくて謝られる。まぁ慌てず焦らずゆっくりと行きましょう。

国道のルートを通ったため宍喰から水床トンネルを通り抜ける。トンネルを抜けると高知県へ入る。いよいよ修行の道場、土佐の国。というか今朝の出発地点の甲浦付近にようやく戻っただけなのだ。今度はエネオスのガソリンスタンド横から国道を逸れて、甲浦の町へと下りて行く。

甲浦の町へと入ると、入り江が広がる。入り江には漁船が並び、入り江を取り囲むように民家が建ち並ぶ。ここには、ゆっくりした時間が流れている。

こんな場所で子育てできるのはとっても幸せ。

時間が止まったような、のどかな通りにも生活感はある。

スーパーフェニックスというスーパーの前を通ると、揚げモンのイイ匂いで急ブレーキ。

揚げモンの匂いに誘われて店を覗くと、店先でパートっぽいステキな感じの若奥さんが唐揚げを揚げている。100gで250円。大きめの揚げたて唐揚げを2個買い、店先で食う。しょう油ベースでショウガが効いていて、熱々で美味いったらありゃしない。唐揚げ食いながらステキな感じの若奥さんとひとしきりおシャベリする。

甲浦の白浜。夏は海水浴客で賑わうのだ。そして愛だの恋だのが繰り広げられるのだ。

甲浦からひと山越える峠には、海を見守る観音様が立っておられる。

そしてまた、山あいから海を望みつつ坂道を下る。

次の浜は生見のホワイトビーチとサーフビーチ。

海にはサーファー。今日の波は穏やか、初心者向けの波。

東洋大師 明徳寺

東洋大師 明徳寺の寺伝によると、平安時代前期に空海が42歳の時に四国での修行中、この地の住人が水が涸れて大変困っていることを聞いた。すると空海は谷を登った所に錫杖を突き立てて祈祷を行った。すると水が湧き出て滝となり、以来、涸れずに流れているという。この滝の前に寺院が建立されたのが始まり。

今日はお遍路なので、弘法大師ゆかりの東洋大師という明徳寺にお参りする。薬王寺から最御崎寺まで82kmも札所は無いけれど、弘法大師ゆかりの地は点在する、なのでお参りする。

東洋大師のご神木のそばには通夜堂というお遍路さん向けの無料宿泊所がある。

内部はあんがい快適そう。

外では番犬くんが居眠り中。

稲刈りも終わり、まもなく秋がやって来る。最近、時間の経つのが早い。年々早くなってきている。実際に早くなってるんじゃないかと思うくらい早い。この先、何年生きられるか分からんが、好きな事、やりたい事をやっとかないと後悔するんだろうな。。。

野根川の土手に並ぶ桜の木。春にまた訪れたい風景。