ネカフェでへんろ 土佐黒潮の旅 その4

今回は、祝日と土日のナカ日に1日有給休暇を取り4連休にして、青春18きっぷを使い鈍行で高知までやってきた。昨日は青龍寺を打ち、今日は須崎から自転車スタート。窪川(今は四万十町)に建つ岩本寺を打ち進み、佐賀の町へ抜けるため熊井トンネルへとやってきた。とてもイイ雰囲気のトンネル。

熊井トンネルは、明治38年12月に工事が完成した長さ90mのレンガ積みトンネル。「トンネルというものは入口は大きいが出口は小さいものぢゃのう」といった人がある。と書かれている。本当だな。

近代土木遺産に指定されている。

レンガは佐賀港から1個1銭の運び賃で小学生などが1~2個ずつ運んできた。そんな小学生たち、今生きていれば120歳くらいだろうか。

末永く保存し後世に伝えてもらいたい、すばらしいトンネル。

トンネルを抜けると谷がえぐられ、木々が伐採されている。せっかくのイイ峠道とトンネルが台無しになっている。

谷をえぐっている原因は高速道路の建設だった。やはり国交省はどアホである。歴史と文化の道を無情にもぶっ潰す。少しだけルートをズラす事ができないのか! 全国的にそんな場所がたくさんあるが、設計者をドツキまわしたい衝動に駆られる。

佐賀にある、道の駅なぶら土佐佐賀。休憩がてら寄ってみよう。オススメは黒潮町産 天日塩使用塩タタキ定食。らしいが、明神丸と聞いてやめる。

本日2回目のソフトクリームとなるが、目に付いてしまったのでしょうがない。黒潮町特産の天日塩を使った塩ソフトクリームと黒糖ソフトクリームの二択で迷う。お姉さんおすすめの塩ソフトクリームでしょうと食べてみる。これは美味かった。

高知の佐賀。津波避難所の高さがものすごいなぁ。

伊与木川。平和な町に永遠に津波が来ない事を祈る。

高知の佐賀の横浜トンネル。

振り返ると佐賀の町が見渡せる。

鹿島。アニメに出てきそうな雰囲気の島だ。

土佐西南大規模公園(佐賀地区)。高知県西南部に複数個所に跨がり整備されている都市公園らしい。国道56号沿いの雄大な太平洋を望みながら休憩できる「展望広場ゾーン」と、スポーツや自然散策を楽しめる「コミュニティ健康運動ゾーン」があるらしい。

振り向けば遠くにシルエットが見えるのは、室戸岬じゃなかろうか。あんな所から自転車で来た事に感無量。

太平洋、黒潮、白波、白浜海岸。

向こうに見えるのは井の岬。

山と海とのわずかな隙間に田んぼをこさえる。

掛川のたこ焼き。愛想の無いオッサンが作り置きしたたこ焼きを売る。でも腹が減っているので買う。

太平洋を眺めつつ、生ぬるく、固まり感のある、ソースと気持ち程度の削り節だけの、たこ焼きを食う。こいつはイタダケナイ。せめて焼き立てなら・・・オッサン修行し直せや!

国道はトンネルとなるので、井の岬を周っていこう。はるか向こうに薄っすらと伸びるシルエットは明日の目的地、金剛福寺の建つ足摺岬だろう。

伊田の松山百貨店。しぶい。

有井川付近で出会った外人の歩きお遍路夫婦。目の前で突然チューをするラブラブっぷり。追い抜きざまに「ハロー」と挨拶すると旦那さんは「オハヨウゴザイマス」といい、奥さんが「No!No!コンニチハ」と言う。しばらく併走しながらお喋りするが、かみ合わない。

海の王迎。鎌倉時代の末期、元弘元年(1331年)に後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府の討幕運動である「元弘の乱」が起き、後醍醐天皇ほか討幕派は笠置山にて敗れ、幕府軍に囚われた。元弘二年(1332年)に後醍醐天皇は隠岐へ配流となり、第一皇子の尊良親王は土佐に配流となる。その配流地が海の王迎。海から来た親王を迎えた故事がそのまま地名になった。

尊良親王が上陸したのがこの辺り。

大方の入野海岸。長い長い砂浜だな。砂浜美術館なんかもある。

浮津海水浴場にあるイイ感じのキャンプ場。

入野松原を進む。

海にはサーファー。

浜にはお遍路とサーファー。

畑には韮。韮、にら、ニラ。辺り一面ニラ畑。ニラのいい香りが充満している。

蛎瀬川。自然豊か。

土佐くろしお鉄道。基本一両編成。

SOLANA SURF CAMPはアメリカンタイプのピザ屋さん。「四万十のりとクルミのゴルゴンゾーラ」とか「キムチピザ」とか、「キムチピザ」は生地はモチモチ程よい辛さ、らしい。知らんけど。

中村(今は四万十市)まで最後の登り坂。逢坂トンネルを抜ければ中村。もうこれ以上自転車を漕ぎたくない。とりあえず寝転がりたい。そして風呂に入りたい。うまいメシ食いたい。人間の欲望が剥き出す。今日は中村で泊まろうか。

中村は、戦国時代には土佐一条氏の城下町となり、「土佐の小京都」と呼ばれるように京都をモデルとした都市造りが行われた。しかし、土佐一条氏は、天正時代になると、高知を本拠地とする長宗我部氏によって倒され、長宗我部氏の領内に入れられた。 江戸時代になると、長宗我部氏から山内氏に統治者が変わり、中村は山内氏が治める土佐藩の領内となる。現在、中村城跡には犬山城天守を模した四万十市立郷土資料館が建っている。

後川に掛かる佐岡橋の上で夕日を眺めつつ今からのイベント計画を立てる。イベント計画とは、風呂、メシ、寝床の三つ。おへんろなので夜の街は入っていない。その三つをいかに安く上げそしてイベントチックに仕立てるか、という計画。

まずは風呂。中村温泉という昭和チックな銭湯。入口はひとつ、中に入ると右に番台があり、左手前が男湯、左奥が女湯。

中はいたって普通の銭湯。あぁやっぱり昭和チックな銭湯は最高だ。番台のオバちゃんに、この近くに安く泊れる民宿は無いか聞いてみると、外まで出てきて案内してくれたが、残念ながら見つけられなかった。

中村といえば龍星ラーメン。龍星ラーメンといえば中村、と言うくらい有名で行列ができるラーメン屋。

龍星ラーメンと唐揚げセットをチョイス。龍星ラーメンはコチュジャンの効いたややピリ辛目のスープ。坦々麺とはちょっと違う。スープに沈んでいる細切り豚肉の具がけっこうボリュームがある。ダシも美味くスープをかなり飲んでしまった。デカイ唐揚げも美味く、ビールが飲みたくて飲みたくてたまらないが、まだ自転車に乗るのでガマンガマン。

ビールが飲みたいという欲求不満が残ってはいるが、ひとまずは腹が満たされたので今夜の宿を探さねばならない。中村にはドーム23四万十店というネットカフェがあるが、なんと22時までしか営業していない。街を彷徨い偶然見つけたスーパーマーケットのフジに買出しのため寄り、ビールとツマミ、そして明日の朝ごはんを調達する。フジのベンチに腰掛けて、宿の情報をスマホ検索し、ガラケーで電話をかける。一発目に電話した中村駅前にある民宿土佐は素泊まりで3,500円なり。金額的にはちょいとイタいが、電話の向こうのオバちゃんは愛想が良く親切そうなので民宿土佐に泊ることにした。

中村駅前にある民宿土佐のロビーに入ると宴会後の匂いが充満していた。今日は県外から来たお遍路さんが5組ばかり泊っているそうで、豪華な土佐料理を出したそうな。明日は早朝に出発する事を告げ、部屋に案内してもらう。テレビを見ながらスーパーフジで買い込んだビールをチーズとオカキをアテに飲む飲む飲む。

明日は足摺岬に建つ金剛福寺を打ち、土佐清水辺りで泊まろうと考えながらビールを飲み続けていると、奥さんからラインが入る。ここでは理由を書かないが、急遽明日中に自宅に帰らねばならなくなった。今から21時15分中村駅前発の夜行バス「しまんとブルーライナー」に乗れば明日の朝5時53分には大阪駅前に着くのだが、自転車が輪行できないのでダメ。やはり青春18キッパーらしく鈍行で帰るとすると、翌朝7時19分中村発に乗れば22時54分に地元の駅に着く。なんと所要時間15時間35分。ここで閃いた。中村と窪川の間は、土佐くろしお鉄道という第3セクター路線。つまり青春18きっぷが使えないので運賃1,090円を払わないといけない。じゃあこの区間だけさらに特急料金410円を払い特急を使えば、所要時間がぐ~んと短縮される。とは言っても12時間51分もかかる。

予定変更、翌朝の6時08分 中村駅発、特急南風6号に乗る。

みんな大好きアンパンマン。

昨日、チャリを漕いでいた道路を見ながら朝日を拝む。

朝メシは、昨晩中村のスーパーフジで調達したおにぎりセット

快適な特急の旅も窪川まで。ここからは青春18きっぷで7時05分発の高知行き鈍行に乗る。

窪川から1時間52分。8時57分にようやく高知駅に到着。乗り継ぎの多度津行き出発時間まで待ち時間は112分。高知駅でおよそ2時間待ち、ひどすぎる。

乗り継ぎ2時間、何しようか。高知城にでも行ってみよう。自転車は輪行バックに入れたまま駅のホームに置いておきたい。駅員さんに告げると、何の抵抗も無くどうぞどうぞと快諾してくれた。なので手ぶらで高知駅前から土佐電に乗って移動する。

土佐電は市内均一200円。桟橋車庫前行きに乗ったので、はりまや橋電停で、いの駅前行きに乗り換える。

土佐電の高知城前電停で降り、外国人観光客や家族連れと一緒のペースで北へプラプラと歩いていくとお堀が現れる。高知城の表門、追手門から天守閣を望む。追手門と天守閣を同時に見る事ができる城は日本で高知城だけ。高知城は江戸時代から天守が現存している現存12天主のひとつ。天守や追手門など15棟が重要文化財に指定されている。重要文化財は、天守、懐徳館、納戸蔵、黒鉄門、西多聞、東多聞、詰門、廊下門、追手門、天守東南矢狭間塀、天守西北矢狭間塀、黒鉄門西北矢狭間塀、黒鉄門東南矢狭間塀、追手門西南矢狭間塀、追手門東北矢狭間塀。

高知城 追手門。享和元年(1801年)年の建築。国の重要文化財。石垣の上に入母屋造本瓦葺の渡櫓を乗せた造りで、櫓の2階には石落としがあったり、塀のには武者隠しがあったりと、三方向から攻撃を加えることができる。

関ヶ原の戦いの功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊は、慶長六年(1601年)大高坂山に新城の築城工事を始め、慶長八年(1603年)2代忠義の時代に本丸と二ノ丸が完成した。享保十二年(1727年)城下町の大火で追手門以外の城郭のほとんどを焼失したが、宝暦三年(1753年)までに創建当時の姿のまま再建された。

南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式。最上階の高欄は徳川家康の許可を得て造ったもの。創建時のものは享保十二年(1727年)に焼失し、延享四年(1747年)に焼失以前のものを忠実に再建され、高欄を設けるなど古風な復古型をとっている。

独立式望楼型四重六階、一重目の屋根を腰庇として三重六階と数えられることもある。窓は突上窓と連子窓、天守台がなく本丸上に、直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられており、このような本丸を最後の防衛拠点とする構えは慶長期の城にみられる。

高知名物のアイスクリンゆず味を食べながら高知城を愛でる。

天守閣と本丸御殿。藩政時代に築かれた本丸御殿が現存しているのは高知城と川越城だけ。さらに現存天守と現存本丸御殿のツーショットが見られるのは日本で高知城だけ。本丸御殿は天守に隣接して造られており、二ノ丸御殿ができるまでは山内一豊と見性院が暮していた。

書院造の本丸御殿は懐徳館として歴史資料などを展示している。内部は上段の間、二の間、三の間、四の間、納戸、三畳二室、雪隠、入側などから成る。

高知城は見どころ満載。2時間あるので優雅にじっくりと周っていたが、気がつくと汽車の出発時刻まであとわずかとなっていた。これを逃すと青春18きっぷでは今日中に家にたどり着けない。でも、土佐電に乗ろうが走ろうが高知駅まで間に合いそうに無い。あせりながら駆け足で高知城内を出ると、追手門前にちょうどフランス人観光客を乗せてきたタクシーが停まっている。タクシーに飛び乗り高知城まで送ってもらう。運転手さんはお喋り好きで、高知の見どころや高知自慢を目いっぱい話してくれた。わずかな時間だったがますます高知が好きになる。

タクシーに乗ったおかげで、高知駅の売店で出発までに弁当やらビールやらツマミやら買うことができた。ホームに置き去りにしていた自転車も無事あってよかったよかった。予定通り高知駅10時49分発の多度津行き鈍行に乗る。多度津まで3時間57分のロングラン。ビール2本じゃ足りないかも、とても不安だ。

大歩危駅ですれ違う「四国まんなか物語号」。今はやりの豪華観光列車。大歩危駅のホームでは笛や太鼓のものすごい歓迎っぷり。

途中の土佐山田駅や大歩危駅、阿波池田駅では15分くらい待ち合わせで停まる。その度に駅の売店にビールを買いに出かけるのであった。こんなロングラン鈍行に乗り合わせた乗客は、やはり青春18キッパーばかり。近くに座っていた鉄子ちゃん達と盛り上がり、4時間近くの鈍行旅も退屈しなかった。ひとりは東京在住のIT企業に勤める仕事に疲れたOLさん。もうひとりは大阪在住の自分が鉄子ということが恥ずかしいOLさん。そして奥さんは友達と海外旅行中という定年後の悠々自適を満喫しているオジサマ。みんなゆったりと時間が流れる鈍行の長旅を満喫している。

そういえば、お土産を買いそびれていた。家族のことを忘れていた訳ではないがお土産のことを忘れていた。帰りの汽車でビールのアテにしようと高知駅の売店で買ったが食べそびれていた「土佐天」という練り物をお土産代わりにしておく。

今回は、さらに足摺岬の金剛福寺から延光寺を打ち、土佐高知の修行の道場を終えようと思っていたが急遽帰る事となり、中村止まりとなった。次回は中村から再スタート。いつのことやら。