車中泊でへんろ 高知よさこい その2

昨日は安芸から出発し、大日寺、国分寺を打ち進み、南国市にある「道の駅風良里」で車中泊をした。真冬の車中泊だったがガソリン節約のためエンジンを止め暖房なしで寝袋に包まって一晩を過ごしたが、明け方まで快適快眠。コールマンの3シーズン寝袋はすばらしい。5時前には目が覚め起きだした。今日の予定は再び車を後免駅近くに停めておき、昨日の終了地点の国分寺から再出発する。高知市の郊外をクルリと回るようにお寺は点在している。都市近くに連なるお寺は一気に回れるから今日は楽勝だな、などと思っていたがやはりそこは修行の道場といわれる土佐の国、そんなに甘くは無かった。

「道の駅風良里」から後免駅近くのナンコクスーパーに向かう。開店前なので今は買えないけれど、帰ってきたらまた何か買うので今日も停めさせてください。暗闇の中を昨日の終了地点の大日寺へ向かう。昨日から一転、今日は一日イイ天気らしい。

まだ暗闇に包まれている大日寺。時刻は午前6時30分。息は白く、手先は手袋をしていてもシビレてくる。真っ暗なので本堂まで行く勇気はない。仁王門の前から今日の無事と駐車場で怒られませんようにとお願いしてみる。

夜が明けてくると周りの様子が見えてくる。川面にゴミがいっぱい浮いてると思いきや、水鳥がたむろっていた。

朝日を背に受け遍路道を行く。

国立大学法人 高知大学 医学部 附属病院。高知の最先端医療センター。

へんろ道はわざわざ峠を越えるルートなのだ。チンタラと写真を撮りながら登っていると、地元の立ち漕ぎ自転車女子に追い抜かれる。

逢坂峠を越えると高知市に突入。お姉さんと峠の頂上まで抜きつ抜かれつデッドヒート。まぁ自分は写真撮ったりしてたしな。

一宮墓地公園から高知市内が望める。「一宮」は「イック」と読む。

墓地沿いの小道を一気に下る。

土佐神社の楼門。

土佐神社の参道を進んでいく。

第三十番札所 百々山 東明院 善楽寺

縁起によると、桓武天皇が在位(781〜806年)されていた後の大同年間に弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として神宮寺とともに善楽寺を開創され霊場と定められた。 以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えている。とくに土佐2代藩主・山内忠義公のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し繁栄をきわめた。だが明治新政府による神仏分離、廃仏毀釈により神宮寺と善楽寺ともに廃寺となり、本尊の阿弥陀如来と弘法大師像が29番札所国分寺に移された。両寺の廃寺により明治8年に安楽寺が30番札所となる。昭和4年に善楽寺が再興され30番札所の正統性について論議され、安楽寺と善楽寺の2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期があったが、平成6年1月1日を以って善楽寺が第三十番霊場(開創霊場の寺)、安楽寺が30番奥の院(本尊奉安の寺)とすることが決定された。

百々山 東明院 善楽寺 本堂。昭和58年に改築。実は昭和4年に再興された新しいお寺。

善楽寺大師堂。大師堂は大正時代の建立。大師像は「厄除け大師」として知られ、厄年にお参りしたり交通安全などを祈願すると霊験があらたかと伝えられる。

百々山 東明院 善楽寺をゲット!

あとで知った事なのだが、30番札所は平成5年まで二ヶ所あった。善楽寺が第三十番霊場(開創霊場の寺)、安楽寺が30番奥の院(本尊奉安の寺)だそう。お参りするのはどちらでもよいし、両方でもよいらしい。さすがアバウトな四国八十八ヶ所、ますます魅了される。今回の区切り打ちでは30番奥の院 妙色山安楽寺をお参りしなかった。次回の際にはお参りしよう。安楽寺は高知市洞ヶ島5-3に建立されている。

こちらは土佐一ノ宮の土佐神社。

現社殿は元亀元年(1570年)長宗我部元親公の再建により建立された。入母屋造りの前面に向拝を付けた本殿と、その前方の十字形をなす幣殿、拝殿、左右の翼、拝の出からなる。

JR土讃線。モータリゼーションのおかげで朝でも2両編成。

平成32年の供用開始を目指し工事中の高知南国道路。

朝日を全身に受け田園地帯をばく進する。次の札所の竹林寺は右の山の上のようだ。

おはようにゃん。

高須橋。

土電 文殊通電停。いの行きチン電。

土電 桟橋車庫前行きチン電

やっぱり次のお寺は五台山の山の上。車道があるが遍路道もあるらしい。

ここはホンマにへんろ道?

なんか違うんじゃないか、という心の叫びが聞こえてくる。が、進む。

石段かよ! でも、いまさら車道に戻るのもシャクだな。と、この時点ではここがへんろ道だと信じていた。

という事で、石段を自転車担いで登るのだ。ここの石段は上に行くほど角度が増す。朝からナニやってんだ!っていう心の声が口に出る。

石段を登りきると右に星神社。神社の境内側にはその先につづく道が無い。

星神社の反対側に進むと果樹園があり、順路という札があったのでさらに進んでみるが行き止まり。なんでやねん!いじわるかっ!

正面に延びる行けそうな気がしない急斜面の細道を自転車押して行くのはいやだ。

ひとまず行けるかどうか自転車は置いて見に行ってみよう。誰にもパクられない様な場所だが、念のため竹にワイヤーロックを掛けておこう。

草むらを掻き分け山を登る。こりゃゼッタイ遍路道じゃないな。

あぁ行き止まり。柵の向こうは牧野植物園の敷地のようだ。

注意書きをよく見ると、お遍路さんは植物園の中を通り抜けていいようだ。柵のカンヌキはロックされてないので勝手に開けて入るのだ。いまさら戻って自転車を取りにいく気力は失せている。

ということで植物園に忍び込む。

タダで入ってもいいんだよね。

景色はよいな。

展望台なんかもある。タダで入園しているので妙に警備員さんの視線を感じて落ち着かない。

第三十一番札所 五台山 金色院 竹林寺

縁起では神亀元年ころ聖武天皇(在位724〜749年)が中国・五台山に登り文殊菩薩に拝した夢を見た。天皇は行基菩薩に五台山の霊地に似た山容を見つけるよう命じた。行基菩薩はこの地が天皇の霊夢にふさわしいと感得、自ら栴檀の木に文殊菩薩像を彫り、山上に本堂を建てて安置した。その後、大同年間(806〜810年)に弘法大師がここに滞在して瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復、霊場にされたという。鎌倉から南北朝時代の高名な臨済宗の学僧、夢窓国師(1275〜1351年)が山麓に「吸江庵」を建てて修行、2年余も後進の育成に努めた。慶長6年(1601年)に山内一豊公が土佐初代藩主になって以来、歴代藩主の帰依が厚く、祈願所として寺運は隆盛した。また、門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士(1862〜1957年)の記念館と県立牧野植物園があるように、土佐の信仰や文化の中心地とも、土佐随一の名刹ともいわれた。

という事で植物園を出ると目の前に竹林寺の石段が待ち構えている。

「土佐の~高知の~はりまや橋で♪坊さんかんざし買うを見~た♪よさこい♪よさこい♪」よさこい節の舞台は、ここ竹林寺の僧 純信と美しい娘 お馬との恋の物語。

吽 仁王像は貞享三年(1686年)の造顕。

阿 仁王像は貞享三年(1686年)の造顕。

仁王門をくぐり抜け、石畳の先にまた石段。

文殊堂と呼ばれる本堂は、寛永22年(1644年)土佐二代藩主山内忠義公により建立。国の重要文化財。屋根は杮葺きの入母屋造。

大師堂は寛永21年(1644年)山内忠義によって建立された。高さ31.2mある五重塔は昭和55年(1980年)総檜造で再建された。

江戸時代後期の文化13年(1816年)に藩主参詣の際の接待殿として造営された書院。

鎌倉後期、文保2年(1318年)に土佐に来錫し、五台山西麓に吸江庵を結んだ禅の高僧・夢窓国師により作庭された。客殿を囲むように山畔を利用して造られたこの庭は、明るくいかにも南国らしい趣をかもす北庭、そして中国の廬山と鄱陽湖を模した閑寂な風情を見せる西庭からなる鑑賞式の庭園。高知県三名園のひとつで、平成16年(2004年)に国名勝の指定をうけた。納経所のオバちゃんに庭園に入りたいと言うと有料ですと言われたので入るのはやめた。ちょっと恥ずかしい。

五台山 金色院 竹林寺をゲット!

そういえば朝メシ食ってねえな。竹林寺の目の前に立つおでんのノレンに心引かれ店内に入ってみるが、鍋に浸かった3~4日煮込まれ続けたような真っ黒のおでんを見てそそくさと店を出る。

再び牧野植物園を無料で通り抜ける。お遍路の格好をしていないのに、窓口のお姉さんは快く入園させてくれる。

植物園の中を迷いながらも来た道へ戻れた。どうやら遍路道はここではなく他にあった。

自転車あってよかったよかった。が、あの階段を今度は下らねばならん。自転車を担ぎ石段を降りるのは楽かと言うと、まったく楽ではない。滑り落ちそうな恐怖と戦い、自転車を投げ下ろしたくなる衝動とも戦い、石段を慎重に下りていく。

下田川をわたる。次は禅師峰寺。ぜんぶじぶ? ぜんじぶじ? ぜーんぜーん憶えられない。

禅師峰寺へ向かう途中に、武市半平太先生の旧宅とお墓がある。今は別の方が住まわれていて内部の見学はできない。

お墓参りはできる。

お墓の場所から武市半平太先生の旧宅が見渡せる。

禅師峰寺、ぜんぶじぶ、ぜんじぶじ、どこにあるのだ? どうやらトンネルの上の山に建っているらしい。

遍路道は階段のようだ。農作業中のおばあちゃんに、この先も階段が続くのかと聞くと、自転車はそっちの道じゃないと行けないよ、と即答された。

なんでお寺は山の上ばっかなんだ?