車中泊でへんろ 高知よさこい その3

今回の区切り打ちは高知市周辺に点在するお寺を巡る旅。昨日は安芸から出発し、大日寺、国分寺を打ち進み、今日は善楽寺、竹林寺と打ち進んできた。都市周辺のお寺は平地にあるもんだと思い込んでいたが、さもあらず。どこも小高い山の上に建つ。次のお寺、禅師峰寺を目指すがこのお寺も山登りをしなければ辿り着かない。

呼吸は乱れ、心臓の鼓動は爆発気味で、真冬なのに汗がにじみ出る。そんな苦労の坂道の先には山の上からの景色が心を満たしてくれるのだ。自販機でお茶を買い、しばらく景色を眺めつつ、呼吸と脈拍が落ち着くのを待つ。

第三十二番札所 八葉山 求聞持院 禅師峰寺

縁起によると、行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49年)から勅命をうけて土佐沖を航行する船舶の安全を願って堂宇を建てたのが起源とされている。のち、大同2年に奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。このとき自ら十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ、「禅師峰寺」と名付け、また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した。以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ「船魂」の観音さんは今も一般の漁民たちの篤い信仰を集めている。

どのお寺もそうだが坂道の先には石段が待ち受ける。仁王門の金剛力士像は鎌倉時代の仏師、定明の作で国指定重要文化財。

山門から境内に向かう石段の脇には荒れくれる大波のような奇岩が連なり、岩の窪みに溜まった水が潮の干満により増減する「汐ノ満干岩」という岩がある。

境内も奇岩があちこちにあったり。地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれているようだ。「ぜんぶじぶ」って呼びにくいしねって「ぜんじぶじ」だっちゅうの。

大師堂。

太平洋が180度望める絶景。ほらほらあの辺が桂浜やぞ~、と夫婦睦まじく。

浦戸大橋から桂浜、その先にうっすらと延びる陸地は足摺岬だろう。見えてはいるけどこりゃ遠いな。

ここ禅師峰寺ではポン菓子を売っている。大豆、玄米、とうもろこし、マカロニ、米のポン菓子。哀愁に駆られて買っちゃおうかとも思ったが、やっぱやめておく。

八葉山 求聞持院 禅師峰寺をゲット!

ジャスト12時。そういや朝メシ食っていなかった。禅師峰寺の山を下ったすぐそばにある、その名も「ごはんや」。でも昼の12時なのにお客さんがまったく居ない。商い中の看板はあるが店員さんも外からは見えない。恐る恐る、入口を開けると店員さんだろうか、きれいな奥さんが顔を出す。ここでも高知女子のレベルの高さが伺える。

「ごはんや」にはトンカツやらカレーやらといった定番メニューもひと通り揃っているが、やっぱ高知のシラス丼を食っておかねば。

ごちそうさまだにゃん。

浦戸湾に延びる住宅地を走り、突き当たると上空にはみごとな浦戸大橋が掛かっている。次のお寺は雪渓寺、浦戸湾の向こう岸にある。浦戸湾をぐるりと遠回りするか、上空に掛かる浦戸大橋をひいこら登り渡るか。でも対岸に行く第3の方法、渡し舟がここにはあるのだ。

久しぶりに釣りがしたくなる。

長浜と種崎を結ぶ無料の県営渡船。15分ほど待つと、対岸からやってきた。朝夕は20~30分、日中は1時間に1往復運行されている。

時間が近づくと、どこからともなく自転車やバイクが集まって、当たり前のように船に乗り込む。

数分間の無料クルーズ。天気もいいしサイコーだなぁ。

あっという間に長浜に着いた。自転車親子も元気良く降りていく。

漁港脇を進んでいく。なんだか落ち着く街並み。

おぉ!酔鯨じゃないか!

酔鯨ストアでは試飲もできる。自転車なので、しぼりたて吟麗としぼりたて特別純米酒を舐める程度頂く。しぼりたて吟麗はフルーティーですっきりした味わい、しぼりたて特別純米酒はフルーティーでしっかりとしたコクのある味わい。ストアのお姉さまと日本酒について語り、そして自転車で四国を周っている事などをおしゃべりする。自転車でお遍路していると、誰かと無性にしゃべりたくなる。それだけ自転車漕いでいるときは孤独なんだよな。

酔鯨しぼりたて吟麗の一升瓶を買ってしまった。自転車なので宅急便で自宅に送る。

第三十三番札所 高福山 雪蹊寺

縁起は、鎌倉時代の高名な大仏師の運慶と湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、善膩師童子像を彫造して安置したとされる。一時、慶運寺と名のったのもこうした由縁で、これらはすべて国の重要文化財に指定されている。

弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め今日にいたっている。四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院である。

長浜の街並みを走り抜けると程なく雪渓寺に到着。平地に建つお寺はそれだけで嬉しい。

本堂でお参り。団体さんがわずかな時間差で到着した。般若心経の大合唱が境内に響き渡る。

大師堂でお参り。

境内には常設と思われる高知名産品の出店がある。かつお節に鯨ジャーキー、文旦やらミカンやら、生姜に生姜湯、生姜アメ。

納経所にいくと、団体さんはまだお参り中なのに、ツアーガイドが納経所に大量のご朱印帳を持ち込んでいた。一冊書くのに30秒としても15分は待たねばならんのか!、納経も自分でやれよっ!と、お遍路あるまじきな事を思っていると、納経所のオバちゃんが個人さんは先に納経するよ、と割り込み受け付けしてくれる。あらありがたや。ということで高福山 雪蹊寺をゲット!

山門の真向かいに「高知屋」というお遍路さん向けの民宿が建っている。ここは、かなり評価が高い民宿のようだ。一泊二食で6,500円、建物も部屋もきれいで清潔。食事も美味いらしい。特にカツオのたたきが美味いらしい。洗濯もお接待と称してやってもらえるありがたい民宿。らしい、知らんけど。

次のお寺は種間寺なので雪渓寺から西へ進むのだが、桂浜に寄ってみようと思う。なので一旦通って来た道を戻り、そして浦戸湾に沿って進む。

浦戸湾沿いには、あちこちに漁港がある。

岩崎弥太郎、中岡慎太郎、坂本竜馬、ジョン万次郎が描かれた周遊バス。でも土佐四傑といえば武市半平太、坂本竜馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎。

なんだかんだで四度目の桂浜。

こちらが桂浜でございます。弓状に広がる砂浜と背後に茂る松林、紺碧の海と五色の小砂利が調和する見事な景勝地。まわりは家族連れ、カップル、団体さん、そして外人さんだらけ。みんな楽しそうに写真撮ったり、おしゃべりしたり、お土産買ったりしている。なんだか1人で観光地なんかに来るとミジメでさみしいのだ。

坂本竜馬先生、こんにちは。教科書から消えてしまう、こんな日本の教育をお許し下さい。

男前!

太平洋、今日は波も穏やか。

今日は穏やかなので波打ち際まで進んでいける。でも普段は高波打ち寄せる太平洋、波を被るとあっという間に沖までさらわれる。

1人で観光地に来ると寂しさで心が落ち着かない。闘犬を観て、土産物屋でお土産買って、買い食いなんかしようと思っていたが、寂しいのでヤメた。

寂しさを消すためさっさと桂浜を後にし、種間寺を目指して自転車をこぐ。雪渓寺まで来た道を戻り、西へ向かう。途中、地図を見ていると道端に座り込んでいたお婆ちゃんに話し掛けられる。あの山の向こうが高知の市街地らしい。最近の若い子達は遊んでばっかりだと嘆いておられる。話が長くなって来たので挨拶しお別れする。

へんろ道が残っている。

新川川。新川ではなく新川川。

第三十四番札所 本尾山 朱雀院 種間寺

縁起は、敏達天皇の6年(577年)百済の皇子から多くの経論とともに仏師や造寺工を贈る旨の勅書がとどいた。彼らが渡来したのは用明天皇(在位585〜587年)の時代、大坂・四天王寺の造営にあたった。ようやく落慶し、その帰途の航海中であった。土佐沖で強烈な暴風雨におそわれて、種間寺が建つ本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れて寄港した。彼らは、海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされている。

その後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ねたのは弘仁年間である。大師はその薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創された。その折に唐から持ち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆、ひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。天暦年間(947〜957年)には、村上天皇(在位946〜967年)が「種間」の勅額を下賜され、また、土佐藩主の山内公からの加護が厚く、広大な田畑や山林を寄贈されており堂舎の修築も行われている。ただ、やはり廃仏毀釈の難では、容赦がなかった。

種間寺に到着。平地のお寺というだけで嬉しい。

本堂。誰もいない。

大師堂。参拝者はいない。でも、社務所の奥から、楽しげな明るい女の子の笑い声が聞こえてくる。きっとお寺の娘さんだろう。友達が遊びに来ているのかな。

納経所でお参りの方は多いか聞いてみたところ、今日は三連休なのでそれなりに多いとの事。しばらく会話していると、自転車なら喉が乾くやろと、みかんをくれた。太子堂の横のベンチで食ってみる。これがまたジューシーで甘く美味かった。ピンボケだけど。

本尾山 朱雀院 種間をゲット!

ネギ、ハクサイ、ダイコン。鍋かおでんか、腹減ってきた。

涼月橋。明治30年ころの造りといわれる純石造りの橋。メガネ橋と呼ばれている。

石畳が敷かれた橋の半分が昔ながらの橋。

仁淀川。愛媛県の石鎚山を源に愛媛県と高知県内を流れる一級河川。

仁淀ブルーで有名な仁淀川。水質は全国1位。

土佐市内のメインストリート中央商店街。

高知は落花生も名産品。塩ゆで落花生はめちゃうまい。

犬の散歩中のお父さんに清龍寺の場所を聞いてみる。振り返り山の上を指差して、「あの山の上のグネグネした先に見えちゅーき。」

ああやっぱりあそこなのね。でも山の中腹でよかったよかった。

第三十五番札所 醫王山 鏡池院 清滝寺

縁起によると、養老7年に行基菩薩が行脚していたところ、この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。これを本尊として堂舎を建て「影山密院・繹木寺」と名づけて開山したのが初めと伝えられている。

弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810〜824年)のころ。本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に17日の修法をした。満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を現在のように改め、霊場とした。この水は、麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くうえで重宝され、やがては土佐和紙産業をおこすことにも貢献している。 寺伝では、平城天皇(在位806〜09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し真如と名のった。真如はこの寺を訪ね息災増益を祈願して逆修の五輪塔を建立し後に入唐している。大師十大弟子の1人である。また、江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、厄除け祈願のために寺領数百石の寄進を受けるなど、七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。

なんだかんだですっかり夕方になってしまった。現在時刻は16時15分。納経には間に合うだろう。

へんろ道もあるが、階段っぽい。時間が無いので車道を行く。

鼓動が高まり、息が荒くなる。

車道から逸れた場所にある仁王門に寄ってみる。車道を登っていくと仁王門をくぐれない。

仁王門の天井には龍の絵が描かれている。これは「八方にらみの龍」という、どこに立って見ても目が合う不思議な龍の絵。上を見ながらグルグル周ると、そうかもしれない。

清龍寺に到着。高さ15mの巨大な薬師如来像が出迎えてくれる。

こちらが本堂。

そして大師堂。

クールダウンを兼ねて景色を官能する。電線がじゃまなんだなぁ。

土佐市内と太平洋も垣間見れる。次のお寺、青龍寺は右に見える山の向こう。山を越えるへんろ道を行くと14kmほど。遠回りの車道だと17kmほど。どっちにしても今からだと午後5時には間に合わない。

下りのご褒美。この時間だともう車は上がってこないだろう、という事でガツンとコーナーを攻めてみる。楽しくてなんとなく顔が笑っている。

次の札所は青龍寺。ほんとは今日は青龍寺まで行きたかったが寄り道しすぎた。竹林寺で迷ったのも痛かった。という事で、今日は打ち止め、一旦車を置いている後免駅前のナンコクスーパーまで戻ろう。夕暮れの仁淀川沿いを北上する。日がかげると一気に寒さが増してくる。

今晩は、高知在住の友人と晩メシを食う約束をしている。チャリで後免駅まで戻ると約束の時間に間に合いそうに無いので汽車で後免駅まで戻る。JR伊野駅発の汽車まで20分待ち。待ち時間のあいだ伊野の町をぶらつくが特にこれといって何も無い。土佐電いの電停を見たり。

電停の待合室でバク睡い中のオッサンの横で充電させてもらったり。

JR伊野駅はこの時間帯は無人駅。明日の行程はここ伊野駅から再スタートするので、伊野駅前の駐輪場に自転車を置いておく。さすが田舎の駅前駐輪場は定期利用も無ければ一時預かりもない無料駐輪場なのだ。

手ぶらで伊野から後免まで40分ほどの汽車の旅。高知駅を経由し意外と乗客は多いのだ。

という事で、今日のスタート地点の後免駅に無事到着。この後はナンコクスーパーに停めていた車で高知市内へ向かう。車は明日の朝まで入明駅近くのコインパーキングに預けよう。

待ち合わせ時間までまだ余裕があるのでひとっ風呂浴びる。高知城の近くにある城下湯という昭和テイストの銭湯。今日も山登りで汗かきまくり、やっぱ銭湯はいいね。

銭湯からプラプラ歩いて夜の高知城など眺めたり。

関ヶ原の戦いの功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊は、慶長6年(1601年)大高坂山に新しい城の築城工事を始め、慶長8年(1603年)に本丸と二ノ丸が完成し入城した。享保12年(1727年)城下町の大火で追手門以外の城郭のほとんどを焼失したが、現存の天守閣は、寛延2年(1749年)に再建され、他の建物も宝暦3年(1753年)までに創建当時の姿のまま再建された。その後は、自然災害や明治維新による全国的な廃城の嵐、太平洋戦争など幾度となく襲った危機を乗り越え、「南海道随一の名城」と呼ばれる優美な姿をした建物を今に残している。

待ち合わせまでにまだ時間があるので、夜のはりまや橋など渡ってみたり。江戸時代に、高知の豪商である播磨屋と櫃屋は互いに本店が堀で隔てられていた。この両者の往来の為に架けられた私設の橋が播磨屋橋。がっかり観光地の代名詞みたいに言われるが、あんがい雰囲気がありいい感じ。

商店街をプラプラっと歩いて、ひろめ市場で待ち合わせ。

ひろめ市場の中の写真を撮り忘れたのでHPの写真だが、当日もこんな感じで満員、すぐに座れる席がない。

ひろめ市場の明神丸では、目の前で藁で焼いたカツオのたたきが食べられる。

土佐巻き食ったり小海老のから揚げ食ったり、もちろんカツオのたたきも食ったり。ちゃんばら貝やら酒盗やら、土佐鶴のアテには事欠かない。

たっすいがはいかん、と言うことで、店を変えて寿司屋で乾杯。またまたカツオのたたきを食う。塩で食べるカツオのたたきはめちゃめちゃ美味い。そして酔鯨を飲む。

ウツボのから揚げ。これまた美味い。そして無手無冠を飲む。

今晩の宿、友人宅でも買ってきたカツオのたたきをアテに司牡丹を飲むのであった。

翌日も自転車でお遍路の予定だったが、お遍路あるまじき、煩悩全開のエセお遍路のため、みごと日本酒飲みすぎ二日酔い。これにて打ち止め終了~チャンチャン!