真念僧侶を追いかけて

日帰りへんろ区切り打ちの2回目から、すいぶんと時間がたった。何事にも中途半端な癖が出た訳ではない。あれからも四国自転車遍路に出掛けたい衝動が沸くものの、なかなかタイミングが合わない。ネットや書籍を読みまくるうちに、真念という十七世紀後半の江戸期に生きた僧侶のことを知る。

真念僧侶(しんねんそうりょ)

真念は土佐出身で大坂の寺嶋を拠点として、自ら20回以上も四国を回り、弘法大師が開いた霊場を巡り、道標や遍路宿を設置され、それまで八十八箇所よりもっとたくさんのお寺や神社、祠を修行の場としていた四国遍路から、八十八箇所の寺院を選び順番を付けられた。その経験をまとめた原稿を素に、大坂の野口氏がお金を出し、高野山奥の院護摩堂に住む洪卓が読みやすく編集し、刊行したものが「四國徧禮道指南」として普及した。今で言う四国遍路旅ガイドブックである。それまでの四国遍路は一部の僧侶や修験者が本格的な修行のために、修行の場を求め移動をしていたに過ぎず、真念が広めた「四國徧禮道指南」というガイドブックにより、四国遍路が一般人に開かれた。

 

四國徧禮道指南(しこくへんろみちしるべ)

「四國徧禮道指南」は香川大学の稲田道彦先生が研究されており、原文は香川大学の瀬戸内圏研究センターのホームページにデータベースとして見る事ができるが、原文を自分ではまったく読み解くことができない。

 

真念が広めた「四國徧禮道指南」を、稲田道彦先生により現代文に訳した本がある事を知り、さっそく手に入れた。江戸期の四国遍路がどのようなものだったのか、当時の遍路風景や遍路旅の厳しさが伝わり、とてもおもしろくハンパ無いタイムスリップ感を味わいながら熱心に読みふけった。当時の地名、川の名前、そして遍路の人々に親切に接してくれる個人名までが記載されており、次回からは「四國徧禮道指南」のガイドブックも参考に、当時の風景を想像し、遍路に親切に接してくれていた人々の子孫の方に会えれば最高だ。

大阪 空堀商店街(からほりしょうてんがい)

ところで真念僧侶が拠点としていた大坂の寺嶋とは、今の大阪市中央区にある空堀商店街付近だそう。近くは何度も車で通ったことがあるが商店街を歩いたことは無い。調べてみると、新がんばる商店街77選に選ばれている、活気のある元気なレトロ商店街のようだ。おもしろそうな店がありそうな空堀商店街に行ってみないかと奥さんを誘い、実は真念僧侶の痕跡を探しに出掛けた。

土砂降りの土曜日、大阪市営地下鉄谷町線の谷町六丁目駅に嫁さんと降り立つ。地下鉄なので昇り立つか。地下鉄出口から1ブロック南下すると空堀商店街。谷町筋の両側に商店街の入り口があるが、東側に出たのでひとまず東向きにアーケード街を歩いてみる。お昼時前なのに、「洋食の店もなみ」の元気なお兄ちゃんが呼び込みをしている。しかしすぐにアーケードが無くなった。この先も上町筋までアーケードの無い空堀どーり商店街が続くが、嫁さんを土砂降りの雨の中を歩かすと不機嫌になりそうなので、「この先に何があるか見てくるからちょっと待っていて」。と一人で雨の中を行く。左手に公園があるが真念の痕跡はなさそうだ。この通りの左右にも路地が続くがどの路地も下り坂となっていて、空堀商店街は堤防の上にでも造られたかのような地形だ。雨脚が強いのですぐにUターンし、奥さんの「何してたん」という問いも曖昧に、再び谷町筋まで戻る。

谷町筋の信号を渡り、「はいからほり」と書かれた三角屋根のアーケード街に入っていく。雨の日にもかかわらず人通りが多い。地元の買い物客が多いようだが、カメラをぶら下げて足を運んできた人も多く、外国人観光客の姿も見受けられる。古くから商売をされているであろう商店や、今流行の古い町家をレトロモダンに改装したお洒落な飲食店も目に付く。右も左も店がみっちり並んでいるが、土曜日だからかシャッターが閉まっている店も見受けられる。八百屋や魚屋からは店主とお客とのバリバリの大阪弁の話し声が聞こえてくる。とりあえず奥さんとぶらぶらしながら昼飯の店を探すが、ひと通り歩いてみようということで、松屋町筋の方向に商店街を歩いていく。

商店街の途中から長い坂道となり、なだらかに下って行く。歩くのは楽だが、追い越していく自転車のブレーキからキーキーという甲高い音が耳障りだ。振り返ると高低差がかなりあり、これが上町台地なんだなと実感した。この辺りの左右に延びる路地も坂道だったり石段だったりと高低差を感じる。路地裏にそれたい衝動に駆られるが、ひとまず奥さんのご機嫌を保つためにお店を見て歩く。

気になる飲食店は、「畑の食堂NATURA」、「カレーとくつろぎ 旧ヤム邸」、「饂飩とお酒 からほり きぬ川」「炭と蕎麦と酒 今なら」、「釜戸ダイニング&雑貨 縁」、「空堀天ぷら飯 から天」などなど。

行列のできていた「カレーとくつろぎ「 旧ヤム邸」。

アーケードの終端でUターンし、来た道を戻る。今度は登り坂だが、きょろきょろしながら歩くのでさして大変ではない。どの店にしようかと迷うが、そんなに腹が減ってない事もあり優柔不断の二人はいつものように決められない。

ちょっとだけ路地裏に入ってみようと誘うと、奥さんは渋々ついて来てくれた。傘を差し細い坂道を下ると古い民家や長屋がひしめき合うように建ち並んでいる。生活観あふれる路地はとても狭く、そして迷路のように入り組んでいる。

この先はどこへ通り抜けられるのか、ワクワク感を感じながら進むが、奥さんは心配そうについて来る。くねくねと進むと、石段があったり石垣が現れたりと、大阪にこんな街があったのかと改めて驚いた。

石垣の下に井戸があり、空堀まちなみ井戸端新聞という立て看板がある。立て看板によるとこの空堀は豊臣時代に大阪城の外堀があったためその地名がついたそう。松平忠明によって東半分が武家地として開かれ、鉄砲奉行の同心50人の屋敷が並ぶ五十人屋敷・五十軒筋といった通称が付けられた。西半分は市街地として開かれ、御用瓦師だった寺島家の瓦の土取り場となり、その後町人町として発展した。谷町筋と上町筋は寺町として開かれた。土の採取によって高低差ができた通りに軒を連ねる町屋や長屋が今も残り、暮らしを見守るお稲荷さんやお地蔵さんが昔から続く大阪の生活を今に伝えている。

長屋の路地から垣間見える背後にそびえるマンションは興醒めだ。開発の波はしょうがないのかもしれないが、この風景は残って欲しいと感じる。

結局、空堀商店街近辺には真念僧侶の痕跡は見つけられなかった。どこかにあるのかもしれないが、奥さんに気を使いながらの探索では抜かりがありすぎる。遍路の道中に、高知県土佐清水市にある真念庵にはぜひ立ち寄りたいと思う。真念庵とは、第37番札所岩本寺から第38番札所金剛福寺の途中にある伊豆田峠からくだる途中の市野瀬という集落にある。真念僧侶が善根宿として建立したそうだ。

あとがき:稲田道彦先生の研究によると真念僧侶が住んでいた大坂西浜町寺嶋は大阪市西区千代崎1・2丁目付近との事。完全に間違えていた。大阪ドームと松島公園の間あたりで松島新地の西側。残念ながらその付近は昔の面影は一切無い。