日帰りへんろ 鳴門から始動 その2

JR鳴門駅を出発しいよいよ四国遍路を始動した。今日は藤井寺を最終目的地としている。思っていた事がついに実現できている喜びが込み上げてきて、ひとりでハイテンションな気分になっている。と、感じている自分と、どうせ長続きしないだろう、という自分がいるが、それはさておきなんだか楽しい。

アルミ製の玄関ドアとAEDが付いてる仁王門を出て、三番札所金泉寺を出発する。

さぁ、続いて四番 大日寺へ向いましょ。

三番札所金泉寺の仁王門を出て板野の街を走る。この辺りは通りがごちゃごちゃして民家も多い。道すがら所々に、矢印やへんろ道と書かれたステッカーが貼ってある。カーブミラーやカードレールなどにも貼ってある。地図が無くとも迷わない。貼るのは大変だったであろう。親切ではあるがあちこち貼りすぎている感もある。地図と方位磁石を見ながらルートを探り進む事や、あげく迷ってしまい焦りながらルートを探し出す事もまた楽しいことなのにとも思う。

JR高徳線の踏切と橋を渡ると、右にこんもりとした森が現われ、祠や鳥居が建っている。やがて頭上に高速道路の高架橋が現われ、高架橋をくぐった先を右に曲がった。しかしその先は高速道路の建設により造成されたコンクリートに囲まれた道である。でも、へんろみち保存協力会の地図では遍路道はこっちだと示している。不安げに進んでいくと遍路石があり矢印シールがあった。遍路石の示すこの先は、笹が生い茂った藪である。藪の中に、けもの道のような隙間がある。

竹やぶの中に突入し、しばらく進むと小屋風の蓮花寺が現れた。だれも居ない。

山と畑との間を抜け、お墓の横を通ると再び山道に入る。こういう道を走るのは楽しくてしょうがない。

竹やぶのトンネルのような土の道を抜ける。

第三番札所 金泉寺奥の院 愛染院

畑の脇道を行くと金泉寺奥の院 愛染院。古びた朱色の山門には巨大なわらじが左右に配置されている。このゾクッとする雰囲気はたまらない。

仁王様の周りには桜の花が散りばめられている。

山門奥の本堂や大師堂、草鞋が山ほど奉納されている赤澤信濃守のお堂など、全体的に古びた朱色の様相で心をざわめかせる雰囲気がある。

本堂。

大師堂。

鐘付き堂も洒落たデザイン。

境内を掃除している住職らしき御仁に納経をお願いすると、お茶とコーヒーを勧められ縁側で一服する。これがお接待というヤツなのか、と恐縮しながらご住職さんに自転車で区切り打ちを始めたことを話す。奥の院さんもできれば参拝したいと言うと、この先の大変な札所の情報を教えてくれた。

金泉寺奥の院 愛染院をゲット。お遍路さんは、ぜひ愛染院もお参りして欲しい。

一息ついたころ愛染院を後にすると、近所のご老人から挨拶して頂いた。

民家と川の間の1mほども幅のない隙間を進み、畑の畝を進む。

再び竹やぶの山道を抜ける。

山道を抜けると民家の庭先に出た。全力で犬に吠えられる。番犬には最高の犬だ。

数件民家が建っており、その中の一軒がうどん屋だった。腹は若干減っており、うどん屋に興味をそそられるが、のれんが掛かっておらず、まだ開店前のようだし、今日は愛妻弁当を持って来ているので残念ながら先に進む。

しばらくは舗装された農道を進む。畑は花畑のように咲き誇っている。

民家の横に遍路石があり民家の脇を入る。送電線の鉄塔のたもとを通り畑の脇を進む。どう見てもここは民家の庭先だろうという場所を通り、高速道路の高架をくぐる。

高架の先のお墓の脇から竹やぶに遍路道の矢印は向いている。

上りの山道の雑木林の中を進んで行くと脇には石碑が沢山建っている。転がっている石碑もある。なんちゃってマウンテンバイク(N-MTB)の走破性を楽しみながらガンガン登る。

まだまだ登る。へんろ石に菅笠。

ガンガン下る。楽しすぎる。

昔のへんろ道の雰囲気が残っているなと思っているとベンチが設置されていたりする。江戸時代末期から明治時代にかけてつくられた道標や墓標類がたくさん残されている。貴重なへんろ道だった。

へんろ道の残る雑木林を抜け、田畑の農道を進むとカフェがある。喫茶来夢。休憩にはまだチト早い。

第四番札所 黒巌山 遍照院 大日寺

弘法大師が42歳にあたる弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして55センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと伝えられる。また「黒厳山」の山号は、境内が三方を山に隔てられており、人里はなれたこの地は「黒谷」と称されたのが由来といわれ、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていたという。

寂本(1631〜1701年)の「四國禮霊場記」(元禄2年 1689年)によると、かつては立派な堂塔が並び、美しく荘厳な小門から入った境内は広々としていた。しかし、歳月が経ち、伽藍の軒は風化していたが、応永年間(1394〜1428年)に松法師という人に夢の託言があって修復されたという旨が記されている。伽藍は再び荒廃し、天和、貞享年間(1681〜88年)に再興されている。また、阿波藩主・蜂須賀家は代々大日如来を守り本尊としており、とくに5代藩主・綱矩公の帰依があつく、元禄から宝暦年間(1751〜64年)には手厚い保護をうけ寺塔の大修理がほどこされている。

農道から2車線道路に出て上りの道を行くと駐車場の奥に山門が見えてきた。四番札所大日寺である。こちらの山門は朱色の細身のシルエットで、中に鐘楼が吊り下がっている。

山門をくぐり、蛤の汁のような白く濁った水が湧き出ていたという、伝説の手洗い場で手を洗う。水は白く濁ってなく澄んでいる。

大日寺の境内は左に薬師堂、右手に大師堂があり正面に本堂があるレイアウト。

本堂と大師堂とを結ぶようにL字形の回廊があり、江戸時代の中頃に大坂の信者により奉納された西国三十三箇所の千手観音像が並んでいる。納経所の御仁に、回廊へは土足で上がっても良いのか尋ねると、黙ったまま頷かれた。青い観音像がとても男前で印象的だったが、回廊の窓がアルミサッシなのが少し興ざめ。納経をお願いしても、やはり何も発しない御仁に納経頂く。しゃべってはいけないシキタリなのだろうか。

それはともかく、四番札所 黒巌山 遍照院 大日寺ゲット。

さぁ、続いて五番 地蔵寺へ向いましょ。

自転車に跨ったところで金髪の外人カップルのお遍路さんとすれ違う。恋人同士か夫婦なのかは分からないが、白衣に菅笠、大きなリュックを背負っている。「ハロー」と声を掛けると「こんにちは~」と返ってきた。一番恥ずかしい挨拶となった。

下り坂の舗装路を快調に走り下りる。下りは最高のご褒美だ。遠目に高速道の高架橋が見えるが、まったく美的センスのかけらもない高架道路だ。巨大な無機質なコンクリート製の橋脚と橋げたは周囲の景観をぶち壊す存在だ。その下で暮らす人々にとっては便利さの代償は大きい。坂の途中の東屋にたむろってタバコを吸っているヤンキー二人組みを横目に、下り坂を高速度で通り過ぎる。

第五番札所 無尽山 荘巌院 地蔵寺

嵯峨天皇(在位809〜23年)の勅願により、弘仁12年に弘法大師が開創された。大師は、自ら約5.5センチの勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられる。

淳和天皇(在位823〜33年)、仁明天皇(在位833〜50年)の3代にわたり天皇家が篤く帰き依えされた。さらに紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられている。この勝軍地蔵菩薩の信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国におよそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったと伝えられる。しかし、天正年間(1573〜92年)の長宗我部元親による兵火で、これらの堂塔はことごとく灰燼に帰した。その後、歴代の住職や僧侶、信者たちの尽力により堂宇が整備拡充され、いまでも寺領は12,000坪にもおよぶ古刹である。

高架橋の手前を右に折れ、山沿いを進んでしまい遠回りした感があったが、なんとか五番札所地蔵寺に着く。大日寺からほぼ下り道で5分ほどしか走っていない。仁王門の横でなにやら土産物を売っている露店があるが、まったく商売っ気がない。

小じんまりとした質素な仁王門を入ると、左手に本堂、右手に大師堂。だれもいない境内を進み入り本堂でお参りする。

本堂よりも太子堂のほうが大きいような感じがする。そのせいか本堂には本堂と、太子堂には太子堂と、柱に大きな文字の看板が掛かっている。間違える人が多いのかもしれない。

大銀杏の逆光シルエット。樹齢は800年を超えている。

第五番札所 地蔵寺奥の院 五百羅漢

本堂左の参道をとおり、石段をのぼったところが奥の院で、ここが羅漢堂である。安永4年(1775年)の創建で、五百羅漢堂とされていた。だが、大正4年参拝者の失火で罹災、いまは200ほどの等身大羅漢像がさまざまな喜怒哀楽の表情で並んでいる。

地蔵寺の裏手に四国にここだけしかないという五百羅漢があるという事だ。地蔵寺奥の院との事。近そうなので歩いて向かう。ひっそりとした雰囲気が漂っている。ワイドレンズが無く、左右の回廊が写らなかったが、コの字形の回廊が中庭を囲むように建っている。

中に入るには入場料がいるが、せっかくなので掃除をしているおじさんに200円払い参拝した。

真言は、「おんまいたれいやそわか」。 慈しみの心にあふれた弥勒様、どうか私の祈願を叶えて下さい。という意味。

境内は左右対称のコの字型の回廊になっており、回廊に等身大の羅漢像がこれでもかと並んでいる。薄暗い廊下に表情豊かな像が整然と並んでいて少々気味が悪い。

垂れ眉のハゲや、腹をかっ開いて内臓が見えているハゲ、極彩色の着物を着たハゲ。垂れ眉のハゲ。

ハゲだらけの回廊の角に、独りでたたずむ女子の姿が見えた。羅漢像よりも女子に興味がわく。お遍路さんか?違うようだ。傷心一人旅か?どうだろう。周りにはだれも居ない。どうも一体ずつ見ているようだ。なんというアンバランス。佇む彼女の後ろを、邪念満載がばれないようクールに通る。そして出口まで行きUターンしてもう一度彼女の後ろをすり抜ける。話しかけたい欲求が込み上げるが、訳ありオーラを感じ、やめておく。羅漢像に心の中を見透かされているような気がして邪念を捨て、またUターンして彼女の後ろを通り、出口に向かう。

入口と正面の如来様もすばらしいが、出口にいらっしゃるお大師さんは、かなりインパクトがある。夜に子供が見たら泣きが入ること間違いなし。表に出ても参拝者は居なく静まり返っている。地蔵寺にもお遍路さんの姿が見えなかったし、五百羅漢にはたたずむ女子ひとりだけであった。ここはお勧めなお寺なのにと思いながら歩いて地蔵寺まで戻り、正面の納経所で地蔵寺と奥の院五百羅漢のご朱印を頂く。

地蔵寺奥の院 五百羅漢ゲット。

五番札所 無尽山 荘巌院 地蔵寺ゲット。

山門を出ると、相変わらず露店の後ろでは、店主と近所のおやじどもと思し気面々がたむろっている。ちらっとこちらを見たが、相手を見たのか商売する気はまったく無さそうだ。

さぁ、続いて六番 安楽寺へ向いましょ。

そそくさと自転車に跨り地蔵寺を後にする。住宅街を抜け一旦県道12号線に出る。が、すぐに県道を逸れ旧街道へ進路をとる。山沿いの、のどかな一本道を行く。橋を渡ると分かれ道だが、道案内のシールが貼ってあり、迷いようがない。しばらく川沿いを進み住宅街を抜ける。橋を渡り、その先で県道と交差する。ここもシールに立て札、石碑に矢印と道案内アイテムがてんこ盛りだ。松島の町並みでは、たばこ屋の角の辻をクランクのように進まねばならないが、ここも道案内アイテムでスムーズに進める。松島神社を過ぎ農家の点在する細道を進むと、突如目の前に安楽寺の山門が現われた。

第六番札所 温泉山 瑠璃光院 安楽寺

ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。

四國禮霊場記(元禄2年 1689年)には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘のひびき絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。その記録である「駅路寺文書」(慶長3年 1598年)が今も残されており、宿坊は400年の歴史を有する。藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。

六番札所安楽寺の山門は、白い石造りのコの字の土台の上に朱色の楼閣が載っている。鐘楼の左右に仁王様の楼閣が広がる、中華風と和風の混ざったデザインだ。竜宮城を思い浮かべる。

この楼閣は鐘楼のある通夜堂になっていて、泊まれるらしい。門の中には階段があり、登ると毛布が積まれている小部屋がある。自由に泊まってよいようだ。野宿よりマシだろうが、しかし頭上には鐘がぶら下がっており、朝には強烈な鐘の音で叩き起こされるのだろうか。

境内に進むと、左に庭園と多宝塔、右は宿坊のようだ。正面の本堂前には鳳凰の載った拝殿がある。拝殿の横に長い屋根が幅を利かせているので、本堂が見えない。何故に本堂が見えなくなる拝殿を建てたのだろうか。拝殿にはお遍路さんが溢れているので外からお参りし、右側の大師堂に向かう。

趣のある大師堂の横には方丈が建ち、瓦と藁葺き屋根のミックス感が印象的である。方丈の隣に建つ宿坊には天然温泉の大浴場があるようだ。方丈の前の広場ではパイプ椅子を並べて、お爺&お婆が沢山たむろっている。お爺の一人に声を掛けられる。お接待と称し、飴ちゃんと手作りのティッシュケースを渡され、もらってあげてと言われる。お婆達が作った品のようだ。とりあえず貰っておく。ティッシュケースは家に帰ってから娘にあげたらめっちゃ喜んだ。自転車で回っている事などをお爺とおしゃべりしていると、白衣は着ていたほうが良いとアドバイスされる。宗教心がまだ芽生えてなく気恥ずかしいと答えるが、それでも着たほうが良いそうだ。何故なのかは教えてくれない。別れを告げ納経する。

六番札所 温泉山 瑠璃光院 安楽寺ゲット。

さぁ、続いて七番 十楽寺へ向いましょ。

安楽寺を出発し田畑と農家が点在する街道を行く。でも、あっという間に到着し、いちいち朱印帳をリュックから出したり仕舞ったりが面倒になってきた。

第七番札所 光明山 蓮華院 十楽寺

大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に10の光明と輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。

寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定される。創建からしばらくは、阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を誇っていたが、天正10年(1528年)長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔が焼失した。幸い、本尊は時の住職が背負い難を免れたという。寛永12年(1635年)に現在の地に移り、再建された。明治時代になり本堂が再建され、本格的な大師堂、書院などを整え、さらに平成6年には立派な木造の本堂を建立している。

七番札所十楽寺に到着。白い石造りのコの字形の土台の上に朱色の鐘楼楼閣が建っている。左右には仁王様は居ないので、かなり小ぶりではある。琉球風のデザインなのか竜宮城をイメージしてしまう。そして何より小奇麗過ぎる。右側の宿坊らしき白い建物は、鉄筋コンクリート作りでまるでホテルである。まるでホテルと思うとおり、ホテル光明会館という。カードキー、全室バストイレ付き、インターネット完備で大浴場もあるようだ。一泊二食付きで7,900円はとても良心的と思われる。良いか悪いかは別として、泊まるのは快適ではあるだろうが、お遍路の修行という意味ではどうだろう。地下道のような山門をくぐり進むとまた石段。

石段を登り再び地下道のような山門をくぐり、本堂へ参る。

十楽寺の本堂は堂々とした風格。すばらしい。

本堂の横手の石段の上に太子堂がある。

太子堂の石段の横手には眼の病にご利益のあるという治眼疾目救歳地蔵が奉られている。自分は、眼底出血を起こし治療を続けているので、ありがたくお参りする。

納経し、七番札所 光明山 蓮華院 十楽寺ゲット。