八十八箇所を回るにあたり、やはり時間が無い。土日は仕事が休みだが、色々と用事が入る。有休を使えばよいのだが、なかなか取りにくい。そんな仕事環境なのだ。東寺と高野山で弘法大師に四国遍路への出発のご挨拶をしたのに、このままだとなかなか出掛けないヤツだなと思われてしまう。しかし、一気に回ると、歩きで40日、自転車で20日、車でも10日かかるらしい。何しろ1,400kmの旅だから。これを、通し打ちと呼ぶ。時間が無い人には区切り打ちという回り方がある。八十八箇所を何回かに分けて回る事だ。順番どおりでなくても良いらしい。
次の休みに、日帰りでとにかく出掛けよう。やはり回り方は順番どおりに一番からまわる順打ちがいい。目指すは一番札所の霊山寺、阿波の国 徳島県だ。徳島には何度も行っている。実家への帰省の道中寄り道したり、釣りやゴルフ、阿波踊りを見に行った事もある。土地勘はわりとあるだろう。
とにかく車になんちゃってマウンテンバイク(以下N-MTB)を積み込み、自宅を出発。時刻は午前7時だった。すでに出遅れた感はあるものの、中国道、阪神高速北神戸線、神戸淡路鳴門道を乗り継ぎ、世界一のつり橋の明石海峡大橋を渡り淡路PAでトイレタイム。そして淡路島を縦断する。
鳴門大橋を渡ればそこは徳島県である。分かっていた事だが道路が空いていた事もあり、自宅からわずか1時間ちょっとであっけなく着いてしまった。
東京から見ると四国は辺境の地だろうが、大阪からはけっこう近い。特に徳島は文化的には関西圏かもしれない。関西のテレビも映るし、大阪の天気予報は徳島も案内する。言葉も関西弁に近い。四国の他の県よりも兵庫や大阪、和歌山といった関西圏との繋がりのほうが深いのかもしれない。
鳴門北インターで高速を降りて海岸沿いを走る。海が朝日を浴びきらきらしていて、白い砂浜とあわせて目にまばゆい。山側にはリゾートホテルがちらほら。会社の慰安旅行で来た事のあるルネッサンス鳴門リゾートはどこだろうか、その時は観光バスで来たので地理的なものがわからない。
小鳴門橋を渡ると鳴門市内に到着。そしてJR鳴門駅付近をしばらくうろうろする。駅の横に駐車場を見つけ車を停めた。発券機も無ければ守衛もいない。ここは無料なのか、それとも無断で停めてはいけない場所なのか判らないが、お姉さんの運転する軽自動車が入ってきてそのまま歩いて出掛けて行ったので、無料駐車場と勝手に判断しここに停める事にした。イニシエの四国の玄関はここ鳴門だ。四国を目指す人々は大坂や淡路島、和歌山から鳴門に舟で渡ってきた。この地から撫養街道が始まり四国各地を結んでいる。昔のお遍路も、この地から四国に足を踏み入れて一番札所を目指したのだろうか。しかし、チェーン店の看板が目立つさほど特徴の無い田舎町の駅前からはそんな雰囲気は感じられない。チェーン店の看板は日本中の街の景観を台無しにしている。
とにかく自転車を組み立てて、一番札所霊山寺を目指しペダルを踏んだ。後ろの荷台には輪行バックを積んでいる。いや輪行バックしか積めない。丸めてもかさばる事この上ない。もっとコンパクトなものにしたかったが、今更しょうがない。という訳で、遂行品はすべてリュックサックに入れて背負って行く。リュックの中身は東寺で買った納経帳が二冊、地図、弁当、着替え、タオル、救急セット、ミラーレス一眼Canon EOS M2、スマホとカメラ類の予備バッテリー、軽装備のつもりだが意外とかさ張る。ウエストバックに財布とスマホ、ガラケー、キーホルダー、コンパクトデジカメはSONYサイバーショットWX100。右腰にビデオカメラSONYハンディーカムGW77をぶら下げる。通し打ちの人の装備はすごい。野宿の人はもっとすごい。敬意を払わずにはいられない。
今日は藤井寺を最終目的地としている。納経時間はどのお寺も朝7時から夕方5時までなので、あと8時間はある。藤井寺までの距離だけ見ると楽勝だが、常に寄り道が付きまとう俺には時間が足りない。とにかく撫養街道で西に行こう。少し迷いながらも撫養街道らしき道を走る。思っていた事がついに実現できている喜びが込み上げてきて、ひとりでハイテンションな気分になっている。と、感じている自分と、どうせ長続きしないだろう、という自分がいるがなんだか楽しい。
現代の撫養街道は県道12号線だが、車が多く自転車は走りにくい。ほぼ並行して走る旧街道を進む。雰囲気のある古い家屋が残る町並みが続く。やはり旧街道は走っていて楽しい。しかし自転車中学生とやたらとすれ違う。皆こちらを見ながらすれ違っていく。俺がそんなに珍しいか、はたまた自意識過剰か。自転車中学生は制服にヘルメット姿や、上下ジャージにヘルメット姿だ。部活の朝練だろうかと考えながら、趣のある街道筋を西へ進む。
大麻町に入ると街道は右へ左へと曲がり進む。やがて白壁の重厚な蔵が現れた。隣の建物には大きなタンクが併設されている。どうやら酒蔵のようだ。本家松浦酒造場とあり、鳴門鯛という銘柄の日本酒の酒蔵のようだ。予約すれば酒蔵見学ができ、試飲もできる様だ。松浦酒造の道を挟んだ反対側には福寿醤油の醤油倉もあり、歴史を感じる。酒の好みは年とともに変わる。若い頃はビールやバーボンを飲んでいたが、いつからか焼酎を好むようになった。芋焼酎はロックが美味いが、冬場はお湯割で飲んでいた。お湯割のほうが風味も増すので経済性と一挙両得だ。しかしここ何年かは日本酒にはまり、1週間で1升瓶を空けるペースで飲んでいる。奥さんには飲みすぎと怒られ、周りからはアル中だと揶揄され、二増酒に手を出したら仕舞いやでと脅される。水やお湯で割れないのでどうしても消費量は上がってしまうが、健康のために和らぎ水で腹の中で水割りにしているから、などと言い訳じみたことを言うと、さらに奥さんに怒られる。松浦酒造では残念ながら酒蔵見学ができず、またの機会とあきらめ種蒔大師を探す。
一番札所奥の院 種蒔大師東林院
種蒔大師とは東林院というお寺。一番札所霊山寺の奥の院とのこと。一番札所よりも鳴門側にある事もそうだが、名前が種蒔とは四国お遍路の始まりにふさわしいと考え、一番初めに立ち寄ろうと決めていた。奥の院という響きから、古めかしい幻想的なお寺をイメージしていたが、なかなかな規模のとてもきれいなお寺だ。本堂と薬師堂をお参りした。無事に、そしてあきらめずに八十八箇所をお参りできますように。今の願いはそれだった。般若心経も南無大師遍照金剛とも唱えていない。唱えたくなった時に唱えようと思う。
東林院の太子堂。
参拝の方法についても決まりがあるようだ。いずれ正式な方法で行いたくなれば行おうと思う。今はまだ宗教心が目覚めていない。
他に参拝者は皆無、境内は静まり返っている。納経できるのか心配しながら社務所を覗いてみる。若住職の奥さんとおぼしき女性に聞いてみた。できますよとの事で納経帳を渡す。
東寺で買った納経帳は東寺から始まり、次が高野山奥の院、そして霊山寺となっている。霊山寺の前のページにお願いしたいところだが、スペースがない。後ろの予備のページに申し訳なくお願いするが、ここでいいのかと、遠慮気味に確認された。2冊分しめて600円也。八十八箇所すべてまわると26,400円×2で52,800円。奥の院や番外道場まで納経すると、いったいいくらになるのか。なかなかお高いスタンプラリーである。
一番札所奥の院 種蒔大師東林院をゲット。
種蒔大師東林院を後にし、またペダルを踏みだす。ここまでは地図を確認しなくとも何とかなった。地図は東寺で買った、へんろみち保存協力会発行のものを使おう。
やがてJR池谷駅が左手に見えた。そういえば数年前に阿波踊りを見に来たとき、徳島市内の渋滞を懸念し、ここに車を預けて列車で徳島駅まで行ったことがある。駅前に向かうが、かなりな静けさ。
JR池谷駅は高徳線と鳴門線の分岐駅。V字にホームが並び、真ん中に駅舎がある。秘境駅やレトロな駅舎は好きだ。しかしJR四国では古い駅舎を旅客サービス向上のため、ことごとく改装している。しかもレトロな雰囲気を残して改装すればよいのに、コスト重視の無機質な駅舎に改装している傾向が多く、非常に残念だ。しかし池谷駅はなんとかレトロの雰囲気を残し、うまく改装している。無人駅なので入場券も必要なく、改札のない改札を通り抜け、ホームへ向かうため屋根の無い跨線橋の階段を登る。振り返るとV字になったホームのレイアウトがよく分かる。しばらく構内をうろついていると、鳴門線側に列車が到着したので眺める。静けさをかき消すように、ディーゼルカーのガラガラというエンジン音が響く。JR四国のカラーリングである白と水色のツートンカラーの2両編成のキハがやって来た。ドアを手で開け数人が乗り込んだ。のんびりしていて非常に良い。開いたドアは自動で閉まり、エンジンを響かせ徳島に向けて発車していく。そしてまた静かな駅に戻った。ディーゼルカーの音とにおいはすごく懐かしい。そういえば、四国の地元松山ではJRの事を汽車と呼んでいたっけ。電気で動く電車ではなくディーゼルカーだからだ。けっしてSLの事ではない。私鉄の伊予鉄は郊外電車と呼んでいる。ちなみに徳島県の鉄道電化率は0%、そう電車はまったく走っていない。
哀愁を感じながら駅をあとにする。途中、十輪寺でふたたび寄り道。地区の集会所の雰囲気だが、歴史は古く弘法大師が学僧を集めて論議をされていたとか。納経はできそうに無い。広くない広場をぐるりと歩き、すぐに立ち去る。
ほどなく、ばんどう門前通りと書かれた通りを進むとJR坂東駅が左にある。坂東英二は確かここの出身だったよな。戦時中には捕虜施設があったとMBSラジオ番組の「それゆけ坂東英二です」で言っていたのを思い出す。
右手に霊山寺の石柱を見つける。左の柱に霊場霊山寺、右の柱に四国第一番と彫り込まれている。一番札所だけに、門前町はさぞかし賑わっているだろうと思っていたが参道は寂しい。こちらの旧街道から来る人は少ないようだ。石柱から200mほど先にお寺が見えるので、アングルを変えて写真を撮る。昔は賑わった参道だったのだろうか。お店を営んでいた形跡の家屋はあるが、今は寂しい路地だ。一番札所の門前町なのだから、土産物屋や飲食店、お遍路グッズの店など並んでいてもおかしくないだろうに。駐車場が石柱のほうにあれば人の動線ができて、にぎわった門前町になるな、などと思いながらお寺の駐車場の端に自転車を停める。車でも駐車場はタダのようだ。気前が良いな。霊山寺の駐車場脇には近代化された会館がある。奥に観光バスが停まっているのはお遍路ツアーだろう。
第一番札所 竺和山 一乗院 霊山寺
弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから四国八十八ヶ所の第一番札所とさだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。
仁王門へ歩いていく。八十八箇所すべてのお寺で、仁王門と本堂の写真をレトロな雰囲気で撮ろうと思う。でもどうしても現代の物が映り込む。電柱、電線、看板、舗装道路、車に鉄筋建物、観光客、そしてマネキン。仁王門前に白衣と菅笠のマネキンが立っている。しかも顔は外人。笑えるが幻滅する。アングルを変えて撮影してみるが、レトロな雰囲気ではなかなか難しい。
このお寺の仁王門は風格がある。でもその風格が写真に写らない。マネキンのせいか、ウデのせいか。
仁王門をくぐり境内に踏み入れる。境内はかなり賑わっており、奥の本堂にはお遍路さんの団体が般若心経を大合唱している。右に錦鯉が泳ぐ池があり蓮の葉に乗った金色の赤ん坊が天を見上げ手を合わせている。その池の奥に大師堂、左に多宝塔、奥に本堂があるレイアウト。そして木々の緑がとても多い。ぎゅっと詰め込んだ箱庭という印象。境内の中にも外人マネキンお遍路がいる。極めつけはパンダの遊具。うちのマンションの中庭に居るのとまったく同じパンダの遊具がある。なんでここに?というハテナマークが頭の中を埋め尽くす。手水で手を清め、子供お遍路マネキンのそばにあるジェットタオルで手を乾かす。自動タオルと書いてあるが、自動手拭いというネーミングのほうがしっくりくるな。
本堂と大師堂など写真を撮りつつ、お参りする。やはり、無事にそしてあきらめずに八十八箇所をお参りできますようにと。本堂の一角にお遍路グッズのコーナーがある。ここでは白衣、菅笠、頭陀袋、納経帳、お札、数珠とお遍路アイテムがなんでも売っている。装備を調えお遍路さんに変身する爺さん婆さんが結構多いようだ。外人さんもいる。外人むけのツアーがあるのか。このお寺は一番だけに他のお寺よりもグッズの売上げははるかに多いのだろう。それに四国を一周したお遍路さんは八十八番札所の後にもう一度ここ一番札所にお礼参りで戻ってくる。そうしないと輪にならない。輪にならないと結願しないということか。霊山寺には2回お参りするからお遍路さんも2倍訪れる。2倍は無いにしろ他のお寺よりは参拝者は多いだろう。いつの世も特権はどんな業界にもあるものだ。そんなことを考えながら眺めていた。しかし遍路のことをいろいろと教えてもらいたい。売店にいる年配の女性の尼さんがお遍路さんたちの質問にてきぱきと答えていた。それを聞いているだけで色々と理解できた。かなり長居をしたがこのお寺では何も買わなかった。特権に対する反逆心からではなく、今は必要なものが無かったからだ。菅笠は自転車では邪魔となるし、白衣は気恥ずかしい。数珠は欲しかったが衝動買いは控えよう。かなり時間を使ってしまったが納経し御影をいただく。
聖武天皇(在位724〜749年)の勅願により行基菩薩が開創された。誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな銅造である。往時は阿波三大坊の一つとされ荘厳な伽藍を誇った。しかし天正10年(1582年)長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。その後、阿波藩主の蜂須賀光隆公によってようやく復興したが、明治24年(1891年)には出火により本堂と多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。以来100年の努力で往時の姿となっているが、大方が近年の建物である。
一番札所 竺和山 一乗院 霊山寺ゲット。
さぁ、続いて二番 極楽寺へ向いましょ。県道12号線を行くと直線的に進めるが、車も多く楽しくないのでここはやはり旧道を行く。
自転車に跨り霊場霊山寺四国第一番と書かれた石柱まで参道を戻る。橋を渡った先を右に曲がらねばならない。見落としかけたが大丈夫だった。古くからの民家が並ぶ旧道を進むと、すぐに二番札所 極楽寺が見えてきた。一番と二番は非常に近い。乗り降りを思うと車やバスよりも自転車のほうが断然早く着くだろう。自転車での移動にはスピードも重要視している。平均車速は20km/h以上はキープしたい。でも俺のN-MTBはかなり重いし、太いブロックパターンのタイヤは路面抵抗もでかい。長距離移動や高速走行には不向きであるし、荷物もほとんど積めない。でも、山道や砂利道、畦道といった太古の遍路道を走りたいのでこの自転車がよい。輪行は簡単にできるが、持ち運びは重労働だ。
第二番札所 日照山 無量寿院 極楽寺
行基菩薩の開基と伝えられているが、弘仁6年(815年)42歳の弘法大師がこの地で37日間「阿弥陀経」を読誦し修法された。その結願の日に阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊とされた。この阿弥陀如来像は尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達したという。漁民たちは漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から「日照山」と号した。
天正年間(1573〜92年)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、万治2年(1659年)本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。
二番札所は極楽寺。朱色のカラフルな仁王門が印象的で古さは感じられない。
境内には長命杉という樹齢1200年といわれる弘法大師お手植えの木がある。年月を感じる荒々しい幹である。下から見上げるアングルで写真を撮る。
お寺は山に囲まれた配置のため、本堂と大師堂は境内にある石段を登った奥にある。本堂は仁王門とは対照的で、良い意味の古さを感じる。お参りし、仁王門まで戻り個人用納経所で納経した。
二番札所 日照山 無量寿院 極楽寺ゲット。
さぁ、続いて三番 金泉寺へ向いましょ。ここからも県道12号線を行くと直線的に進めるが、やはり旧街道を行く。
この先三番札所もまあまあ近いようだ。極楽寺の駐車場を奥へと進み、墓場を抜けると旧撫養街道に出られた。山沿いに住宅が点々と建つ寂しげな道を進む。たまに人を見かけてもほぼ老人だな、などと考えている数分の間に金泉寺の近くまで来ている。
へんろみち保存協力会の地図では、田んぼの畦道が歩き遍路ルートになっている。遍路石も立っているので間違いないようだ。とりあえず稲穂の間のあぜ道を自転車で進む。稲穂が揺れサワサワと音を立てる。カエルが跳ね、虫が飛んでくる中を進む。畦道はこの先の林の中へと続いているが、林と思っていたのは三番札所金泉寺の境内だった。林を抜けたらお寺というこのシチュエーションは、幼少のころに近所のお寺で遊んでいた思い出や懐かしさが込み上げてくる。こういうのを求めていたのだ。
第三番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺
弘仁年間(810〜24年)弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。
聖武天皇(在位724〜49年)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。亀山天皇(在位1259〜74年)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368〜83年)の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦(元暦2年 1185年)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。
金泉寺には名前の由来となった長寿をもたらす黄金の井戸がある。弁慶が持ち上げたという弁慶の力石というのもある。名物も多いが本堂もなかなかどうしてすばらしい。納経し金泉寺をあとにしようと仁王門へ向かう。
裏手から境内に入ったので、出るときに初めて見上げた仁王門。目にまぶしい朱塗りの仁王門には、アルミ製の玄関ドアとAEDが付いていて、何だかな~と思いながらも金泉寺を後にする。
三番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺ゲット。