真夏のへんろ お鶴太龍へ 挫折編 その1

現在までの行程は第17番井戸寺まで。前回の自転車遍路から随分と時間がたってしまった。この先のプランについては、江戸時代初期に真念が広めた「四國徧禮道指南」という当時のガイドブックを手がかりにし、スタンフォード大学公開の帝国陸軍測量地図を参考に妄想を深めている。残念ながら徳島市周辺の地図が欠損しているが、稲田道彦先生の著書とへんろ道保存協力会の地図を参考に旧道をプロットした。しかしいかんせん時間が無い。四国入りするのも、車、鉄道、フェリー、バスと手段はいろいろあるが、時間が無いため行動に移すきっかけが無い。

今回の決断も前日に衝動的に思い立つ。よし、日帰りで行こう。

今回も車で徳島入りし、日帰りで行ける所まで行くという、お気楽プランだが、心の中では考えがまとまっている。今回のプランは、前回終了の井戸寺の最寄り駅JR府中駅付近のコインパーキングに車を停め自転車で出発。まずは井戸寺をお参りする。眉山の麓沿いに徳島市内を抜け、恩山寺、立江寺をお参りし、勝浦川沿いから、標高500mの鶴林寺に挑む。そして一旦山を下り那賀川を渡り、再びヒルクライム標高500mの太龍時に挑む。その後、平等寺へ向かい、JR新野駅から輪行でJR府中駅へ戻る。自分の実力と近頃の不摂生ではかなり無理な計画だろう。

明日の徳島の天気予報は、晴れときどき曇り、最高気温34度、湿度70%。

自転車に乗り、山を2箇所登るには最高の日だ。いやいや外に居るだけで倒れるかも。

午前4時半過ぎ、自宅を出発。明石海峡大橋から淡路島を縦断し大鳴門橋から四国徳島へ入る。高松道の板野ICから南下し吉野川を渡りJR府中駅を目指す。府中と書いて「こう」と呼ぶ国道192号線沿いにはスーパーや飲食店など建ち並んでいるものの、お目当てのコインパーキングが見当たらない。ガソリンスタンドの気の良さそうなおっちゃんに尋ねてみるが、駐車場に車を置いて出かけるような事がこの辺りの住人には無いらしく、徳島市内の方へ行かないとコインパーキングは無いとの事。国道沿いの店舗の駐車場はどこも無料のようだが、夜まで無断駐車するのは気が引ける。ひとまず井戸寺に向かってみることにした。細い道を行くと井戸寺の北側に無料駐車場がある。お参りするのでついでに夜まで置かせてもらう。自転車を組み立て境内に向かう。

久しぶりの井戸寺。近所のご老人が散歩に来ていたり体操したりしている。現在時刻は6時50分。そろそろ納経開始時刻だが、お遍路さんの姿は見当たらない。今日の道中の無事をお参りし出発する。

井戸寺の周辺の辻には数基の墓石が片寄せ合うように点在している。

ひとまず国道192号線(伊予街道)を目指し、田んぼが広がる早朝のへんろ道を進む。遠くの山並みは眉山。

JR徳島線の踏切を渡る。JR四国の1500形気動車がディーゼル音全開で煙を残し走り去る。

国道192号線(伊予街道)を徳島市内へ向けて進み、鮎喰川に架かる上鮎喰橋を渡る。すでに暑さで全身から汗が噴き出すが、橋の上は風が気持ちいい。国道は車も多くチェーン店が並ぶ景色で楽しくないので、城西高校横から一筋南側の旧街道を進む。JAバンク徳島スタジアム、JAバンクちょきんぎょプール、徳島大学医学部病院を過ぎると、佐古の町並み。佐古は一番町から六番町まである古くからの町並み。「四國徧禮道指南」によると徳島から四国遍路を始める際は井戸寺からか、佐古から北に進み霊山寺に行くのが便利とある。

佐古三番町にある諏訪神社の石段。住宅地の脇まで山が迫り急斜面の上に神社がある。

讃岐街道沿いにある徳島ラーメンいのたに本店。今度は生卵のトッピングを忘れずに食いたかったが、早朝のためまだ開いていない。

徳島のシンボル眉山の山頂へ一気に登れる眉山ロープウェイ。乗り場は阿波おどり会館の5階。運行は9時からなので今は動いていない。

朝の徳島市内を徳島駅方面に進んでみる。正面が徳島駅。都会ぽくは見える。

振り返ると眉山がそびえている。その名のとおり眉毛のような姿に見える。

東新町商店街を走る。朝早いためシャッター商店街のようだが、デイタイムはきっと賑わっている予感がする。

続いて鷹匠町。この付近は徳島の夜の街。

徳島のピンク街。早朝からソープランドの呼び込みのおっちゃんに、「すぐ案内できるよ。」と声を掛けられる。今日はお遍路、煩悩を捨てている。

へんろ道は国道55号線に飲み込まれている。国道沿いを走っても楽しくないだろう。という事で県道136号を小松島方面に進むが、道幅が狭いのに車の往来が激しく、気を使いながら進んで行く。やがて国道55号線と合流し勝浦川を渡る。

JR牟岐線。今は阿波室戸シーサイドラインというお洒落チックな名前の路線を走る特急むろと。185系ディーゼル特急。

国道55号線を淡々と進む。室戸まではまだまだ。恩山寺の近くまでしばらく国道を進んで行く。こういうバイパスのような道は走っていても楽しくない。

国道をそれると山村風景。水やり中の農家のおばちゃんに恩山寺はもうすぐと教えてもらう。

「民宿ちば」の先からへんろ道が残っている。進み行くが途中で草ぼうぼうとなり断念。半パンの足に草が絡みつき、擦り傷となった。

第十八番札所 母養山 宝樹院 恩山寺

縁起をたどると、創建は聖武天皇(在位724〜749年)の勅願により、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。十九番霊場に向かって下る「花折り坂」という坂から上には、女性が入ることは許されていなかったのである。寺は「天正の兵火」で焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化、文政年間(1804〜1830年)ころに建立された由緒ある建造物である。

恩山寺山門。屋根から生えた雑草がシブさを増す。

恩山寺は標高50mほどの山の中にある。まだ朝だが夏の暑さに坂道はキツイ。

坂道を登りきり、汗だくで第十八番札所恩山寺到着。

境内には太子堂。

境内にある仏像堂。

境内から30段ほどの石段を登ると本堂がある。すでにバテ気味。

大きなイチョウの木から夏の日差しが降り注ぐ。

納経所で納経し、十八番札所 母養山 宝樹院 恩山寺ゲット。

恩山寺を出発。くだり坂を全力走行、サイコー。

僅かに残るへんろ道を汗だくでのぼり、弦張坂というくだり坂を軽快にくだる。弦張坂は義経の軍勢が弓の弦を張って敵の軍勢を警戒したところからこの名が付いた。

畑の畦道を進む。歩き遍路さんを追い越す。

石橋を渡り民家の庭先を通るようだ。写真を撮っていると民家のおっちゃんが声を掛けてきた。怒られるのかと思いきや、自転車でへんろ道を来たのかと聞かれる。「暑いのに大変だろう、冷たいトマト食べるか」、と嬉しいお接待。

庭で取れたトマトを3個ご馳走してくれた。蚊に噛まれるからと蚊取り線香を焚いてくれ、けっこう長い時間あれやこれやと立ち話する。大雨が降ると庭先のへんろ道が崩れるらしい。でも役所に訴えてもへんろ道なので舗装してくれないらしい。歴史文化は継承して欲しいが、そこで暮らす人々は不便を強いられる。なかなか難しい問題ですな。

冷たいトマトはめちゃうまかった。1個食べて大満足。残りも持って行きと言われるが、次のお遍路さんにご馳走してあげてとお断りした。おっちゃんありがとう。

山沿いの県道を進む。お遍路用の無料休憩所がちょいちょいある。

お京塚。ここにも休憩所がある。

立江の町に到着。小じんまりとした町だが、お店もけっこう建ち並んでいる。正面に見える三角屋根が立江寺だろう。

第十九番 橋池山 摩尼院 立江寺

縁起によると、聖武天皇(在位724〜749年)の勅願で行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5センチほどの小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。当時は現在地より西へ400メートルほど山寄りの景勝地にあって、七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。

弘仁6年(815年)弘法大師が当寺を訪れご本尊を拝した。大師はあまりに小さなご本尊なので後世になって失われる恐れがあると自ら一刀三礼をして新たに像高1.9メートルもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。

「天正の兵火」(1575〜1585年)では立江寺も逃れられず壊滅的な打撃を受けた。だが本尊だけは奇しくも難を免れている。のち、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ現在の地に移って再建された。また、昭和49年の祝融の災にもご本尊は救い出されている。

立江の町の中に立江寺はある。

男前の仁王様。

本堂の天井には286枚の花鳥風月が画かれている。

本道から望む境内。境内は耳をつんざく程の蝉時雨。

多宝塔。

太子堂をお参りし、納経所へ行く。まあ愛想のない小坊主に納経する。

第十九番 橋池山 摩尼院 立江寺ゲット。

立江寺の門前町の和菓子屋。

日焼け止めが無くなり、立江のお店をハシゴするがどこにも売っていない。薬局にも置いてない。やはり四国の田舎おそるべし。日用雑貨屋のおばちゃんに鶴林寺に行くなら途中に新しいローソンができたから、と教えてもらい立江の町を後にする。