明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業  萩エリア

日本は、幕末から僅か半世紀の間に製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業において急速な産業化を達成し、非西欧地域で最初の産業国家としての地位を確立した。このことは、世界史的に極めて意義のある特筆すべき類稀な事象であり、この歴史的過程を時間軸に沿って示しているのが明治日本の産業革命遺産である。明治日本の産業革命遺産は、平成27年(2015)7月に開催されたユネスコ世界遺産委員会で世界文化遺産に登録され、その遺産群は九州・山口を中心に8県11市に渡り23件の資産がある。

萩エリアは時代順に1番目のエリアで、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾、萩城下町の5つの資産で構成されている。

萩エリア  家族で世界遺産

年末の家族旅行。今回はどこに行こうかと相談していた。特に皆からのリクエストは無かったので、小京都と海の幸という題目でコーディネートした。家族には、現地に着くまで世界遺産ありきという事は完全に伏せておく。

まずは旧萩藩校の明倫館へ向かう。平成26年3月まで授業が行われていた旧明倫小学校校舎が、萩の観光起点施設となっている。ここの駐車場に車を停めて、歩いて世界遺産エリアの城下町や萩城跡へ行ってみよう。

萩藩校明倫館は、享保4年(1719)に5代藩主毛利吉元が毛利家家巨の子弟教育のために堀内に開いた藩校。嘉永2年(1849)に現在地に拡大移転し、敷地内には学舎や武芸修練場、練兵場などがあり、吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)も教鞭をとっている。

自宅から5時間以上かけて萩まで車で走ってきた。まずは腹を満たさないと、みんなの機嫌がますます悪くなる。明倫館の教室を改装したレストランで、魚と肉と野菜のミニ三丼セットを食う。メニューみたいな写真しか撮れない腕にうんざり。

萩城下町

萩御城下絵図 山口県文書館蔵。  幕末の慶応元年(1865)当時の萩城下を描いた図。町割りは現代とほぼ変わっていない。寺社、武家地、町地などが色分けで示され、堀内から移転した藩校明倫館が江向の埋立地に描かれ、近世城下町として発展した萩の姿を知ることができる。

世界遺産の城下町エリアへ明倫館から歩いて10分くらい。この通りは江戸屋横丁。

金比羅さん。

木戸孝允の生家。木戸孝允(桂小五郎)は、萩藩の藩医の家に生まれ、萩では吉田松陰に師事し、江戸で剣術、西洋兵学を学ぶ。公武合体派に反対し、尊皇攘夷運動に奔走。藩の重職に就き、藩論を討幕へと導く。慶応2年(1866)鹿児島藩との間に薩長連合を締結。王政復古のクーデター後、五箇条の誓文草案を起草。参与に任ぜられ、版籍奉還の実現に尽力した。明治3年(1870)6月参議。明治4年(1871)岩倉遣外使節団に副使として参加。以後文部卿、内務卿、地方官会議議長、内閣顧問等を歴任。立憲制の漸進的樹立を唱えた。

木戸孝允の生家の裏庭には夏みかん。

菊屋家住宅。菊屋家は、藩の御用達を勤めた豪商で、屋敷は幕府巡見使の宿として度々本陣にあてられた。建物は築400年と江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属する。

旧久保田家住宅。久保田家は、呉服商・酒造業を営んでいた。建物は江戸時代の後期に建てられ、主屋・門・塀・離れが御成道に面し、菊屋家住宅と対峙するかのように立ち並んでいる。

白壁、生垣、石垣と風情ある町並みが続く。庭から夏みかんの木が顔を出しているところも絵になるなぁ。

白壁の風情ある町並みが続く。電柱と電線を地中化して、アスファルトを砂利道色のカラー舗装にしてほしい。

菊屋横丁。日本の道100選に選定された城下町ならではの景色が残る横町。ココも電柱と電線が要らない。

夕暮れてきた。電柱と電線が無いとこんなにも情緒が高まる。

高杉晋作の生家。高杉晋作は、天保10年(1839)に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれ、藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、頭角を表し、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称された。文久2年(1862)外国に支配される清国(現:上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、文久3年(1863)に身分を問わない我が国初の軍事組織の長州藩部隊「奇兵隊」を結成。討幕戦を勝利へと導いたが、肺結核が悪化し下関・吉田(現:東行庵)に隠居。慶応3年(1867) 結核のため、27歳と8ヶ月という若さでこの世を去る。

厚狭毛利家の武家屋敷。51.5mもある長大な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模。

萩城跡

関ヶ原の戦いで西軍の総大将であった毛利輝元は、敗戦により周防国と長門国の2ヶ国に減封され、隠居の上わずか5歳であった嫡男の秀就に家督を譲るように命じられた。輝元は、幕府に幼少であった秀就の後見役として裁可を求め、それまでの居城であった広島城に代わる居城の地を3箇所あげたが、山陰の僻遠地である萩の地を進言された。慶長9年(1604)萩の指月山山麓に連なる干潟を埋め立て築城を開始し、輝元は未完成のまま入城した。慶長13年(1608)本丸、二の丸、三の丸、詰の丸からなる戦時を意識した構えで落成した。

山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で別名指月城と呼ばれる。

本丸には、高さ14.5mの複合式望楼型五層五階の天守があった。明治7年(1874)廃城令により天守や櫓、御殿などの建物は全て解体された。残念!

現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめている。二の丸土塀や三の丸総門など一部は復元されている。

萩絵図(慶安5年)山口県文書館蔵。 萩城部分のみ抜粋。正保元年(1644)幕府の命令によって萩藩(長州藩)が周防・長門の国絵図とともに作成し、幕府に提出した城絵図の控え。萩城下町の最古の絵図で、防衛上の機密であった天守閣をはじめとする城内の様子も詳しく描かれている。

着見櫓と本丸門と天守とを白壁が繋いでいた事を想像すると、さぞや壮大なお城だったのに、と廃城令を恨めしく思う。

本丸から天守台を望む。ここに五層五階の天守があった。

天守台の上には天守を支える柱の乗っていた置石が並ぶ。

内堀の遺構が残っている。堀は海とつながっていて船を引き入れていた。

昔は林の奥は海であった。

二の丸東側の潮入門跡と銃眼土塀。

菊ヶ浜から指月山を望む。

ホテルの夕食は断り、いけす料理屋で晩御飯。コース料理ではなく単品メニューで食べたいものだけ頼む。萩は、肉あり、魚介類あり、蕎麦あり最高。

恵美須ヶ鼻造船所跡

萩藩が、安政3年(1856)に設けた造船所の遺跡で、幕末に「丙辰丸」へいしんまる、「庚申丸」こうしんまる、という2隻の西洋式帆船を建造した。丙辰丸はロシアの技術、庚申丸はオランダの技術が用いられており、このように2つの異なる技術による造船1つの造船所で行った例は他にないこと、また幕末に建設された帆船の造船所で唯一遺構が確認できる造船所であることが評価されている。

現在も当時の規模の大きな防波堤が残っている。嘉永6年(1853)幕府は各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、のちに萩藩に対しても大船の建造を要請した。安政3年(1856)萩藩は洋式造船技術と運転技術習得のため、幕府が西洋式帆船の君沢型(スクーナー船)を製造した伊豆戸田村に船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣します。尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった高崎伝蔵らとともに萩に帰り、恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設した。

恵美須ヶ鼻造船所の見取り図。

現存する防波堤に上ってみる。ここは文化遺産なので遺構はただの古い防波堤でしかない。

世界遺産にたたずむ海鳥。近づいていくと翼を広げ優雅に飛び立って行った。

製材した部材を組み立てる作業場などががあった場所。遺構はただの空き地でしかない。

手前は大工の住まい。奥は蒸気で部材を曲げるための施設。と言われても遺構はただの空き地でしかない。ホテルで朝食のあと、チェックアウトまでの時間を利用し一人で観光した。家族はホテルでくつろいでいる。まぁ連れて来なくて良かった良かった。

安政3年(1856)12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m、排水量47t、スクーナー船)が進水し、万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長43m)が進水した。

萩反射炉

海防強化の一環として、西洋式の鉄製大砲鋳造を目指した萩藩が、安政3年(1856)に試作的に築いた反射炉の遺跡。当時は鉄製大砲を建造するには、衝撃に弱い硬い鉄を粘り気のある軟らかい鉄に溶解する必要があり、その装置として反射炉を用いていた。高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)の煙突にあたる部分が残っている。反射炉の遺構が現存するのは、静岡県伊豆の国市の韮山反射炉と鹿児島市の旧集成館、萩市の3ヶ所のみ。

萩藩は、既に反射炉の操業に成功していた佐賀藩に藩士らを派遣し、鉄製大砲の鋳造方法の伝授を申し入れ、一回は断られたが、その後反射炉をスケッチすることは許可された。古文書には「安政3年に反射炉を試作的に築いて大砲などの鋳造を試みたが、本式に反射炉を築造することを中止した」とあり、この時に築いた試作炉であると考えられている。

コンビニ駐車場脇の丘陵の上に聳える高さ10.5mの反射炉。上半分が二股に分かれているが、内部はそれぞれ独立した2本の煙突となっている。

煙突の先端部分が朽ちて崩れている所がなんともシブい。上部は煉瓦積みで、その下は安山岩と赤土で造られている。

現存している遺構は煙突部分だけ。熱を発生させる燃焼室や精錬を行う炉床、灰を落とす灰坑などは現存していない。

燃焼室で焚いた燃料の炎と熱を浅いドーム形の天井に反射させて、溶解室に置いた原料鉄に熱を集中させて溶解させる。高い煙突を利用して大量の空気を送り込み、炉内の温度を千数百度にして、鉄に含まれる炭素の量を減らし、鉄製大砲に必要な軟らかくて粘りのある鉄に変える。

裏側から見上げる。

出湯口から炉を覗き込む。

家族はコンビニで物色していて、ついに反射炉の丘に上がってこなかった。いい物見れたのに。

松下村塾

天保13年(1842)に吉田松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、子弟の教育にあたった。安政4年(1857)吉田松陰が28歳のとき私塾を継ぎ主宰することになった。

当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから「松下村塾」という名がつけられた。松陰は、「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」と『松下村塾記』に記し、村名を冠した塾名に誇りと責任を感じ志ある人材を育てようとしていた。

松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの間に、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎など、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てた。

木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、当初からあった8畳の一室と、後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っている。

こちらが講義室。

講義室だった8畳の部屋には松陰の石膏像と肖像画が置かれている。

大板山たたら製鉄遺跡

砂鉄を原料に、木炭を燃焼させて鉄を作っていた江戸時代の製鉄所の跡。日本の伝統的な製鉄方法は、鉄の原料である砂鉄と燃料の木炭を炉に入れ鞴(ふいご)を用いて行いる。この時に使う炉を「たたら」と言う。宝暦期(1751~1764年)の8年間、文化・文政期(1812~1822年)、幕末期(1855~1867年)の3回操業していた。原料の砂鉄は島根県から北前船を利用して奈古港に荷揚げされ、荷駄で運ばれていた。ここで作られた鉄は、幕末に萩藩が建造したことで有名な軍艦「丙辰丸」にも使用されている。主要施設(元小屋・高殿・砂鉄掛取場・鉄池・鍛冶屋等)の遺構がよく保存されており、建物跡などの遺構が露出した形で整備されている。

萩市観光協会HPより。 萩市街より車で40分かけて、遺跡を見に行くと言ったら、きっと家族から大大大ブーイングだろう。不完全燃焼ではあるが大板山たたら製鉄遺跡へ行くのはあきらめた。でも、萩はしっとりとした城下町、人も親切、食べ物も美味く、歴史を感じる大満足の旅でした。