19世紀半ばから20世紀の初頭にかけて日本は工業立国としての土台を構築し、製鉄、製鋼、造船、石炭産業という重工業分野において急速な産業化を成し遂げた。産業化の歩みは蘭書片手に試行錯誤での鉄製大砲鋳造や、洋式船の模倣から始まり、西洋技術の導入により専門知識の習得を行った。明治後期には国内で人材が育ち、積極的に導入した西洋の科学技術を国内に適用できるよう改良を加え、産業経済の基盤を築いた。
明治日本の産業革命遺産は、西洋から非西洋への産業化の波及を顕し代表する日本国内8エリア23資産から構成されており、2015年世界文化遺産に登録された。
韮山反射炉 電車で世界遺産!
世界遺産富士山の構成遺産である、河口湖、西湖周辺を、雄大な景色に包まれながら自転車でポタリングしようという予定で、東京新宿からJR中央線で河口湖駅まで輪行。帰宅ラッシュの車内に分解して袋詰めしているとはいえ自転車を乗せるのは大迷惑。東京の人の多さにあらためてショックを受ける。車内で明日の天気を調べるも天気予報は曇り時々雨。何回調べても変わりようはない。という事で急遽予定変更。静岡にある世界遺産「明治日本の産業革命遺産」のひとつ韮山反射炉へ行く事にする。
新宿からの中央線 通勤快速は富士急行線へ直結して河口湖駅まで乗り換えなし。でも、急遽行き先変更、三遊亭 小遊三師匠の地元、大月駅から更に中央線で西へ向かう。
大月からは4両編成の中央線で甲府方面へ向う。甲府の手前、酒折で下車。コストダウンと予定変更のためネットカフェ快活クラブで一夜を過ごす。
さすが山梨はブドウの産地。
たまらん美味そうなブドウがタワワにぶら下がっている。
甲府駅到着。山梨県の県庁所在地、甲府。あんがい田舎。
名所といえば甲府城跡、別名舞鶴城。甲府といえば武田氏だが、甲府城は武田氏の城ではない。天正十年に織田徳川連合軍により武田氏が滅亡ののち、関東の徳川家康に対抗するため豊臣秀吉の命により築城された。内松陰門から本丸へと石段を登っていく。
本丸は芝生広場になっている。そして一段高い天主台には1590年代に築城された当時のままの石垣が現存している。野面積みの石垣の上に天守が築かれていたのか、いなかったのか、史料がないから分からないらしい。
野面積みの石垣のエッジがいいな。
天主台から富士山の方向を望む。やはり今日はどんよりとした雲に覆われて富士山の顔が見えない。予定変更して正解だったな。
甲府城も明治初期には建物が撤去された。ああもったいない。稲荷櫓は2003年の復元。
天主台に天主があればもっと良い城なのになぁ。などと。
野面積みの石垣は自重で撓む。
山手渡櫓門は、舞鶴陸橋と中央本線が甲府城の城内を突っ切る形で建設されたため、甲府駅の北東にポツリと残る「甲府市歴史公園」と化している。城が重要な文化財と認知される以前の愚考。ああもったいない。
山梨県庁別館は、前から見ても上から見ても山の字を模ったフォルムをしている。昭和5年(1930年)に地上3階建の2代目本庁舎として竣工。山梨県の有形文化財。
甲府の繁華街、銀座通り界隈をブラつき、地元朝メシの食えそうな店を探すがどこも閉まっている。七夕祭りのイベント中らしく、きっと夜は賑わっているンだろう。
駅に戻り、モーニングセットで落ち着いたあと、甲府の名所、武田氏館跡(武田神社)へも足を延ばす。
甲府駅から一直線の武田通りは、かるい上り坂だが、自転車を10分も漕げば、武田氏館跡(躑躅ヶ崎館、武田神社)。武田信玄により武田氏は所領を拡大させ、勢力下に信濃、駿河、上野、遠江、三河などを収めたが、本拠地は要害山城を含むここ躑躅ヶ崎館だった。
武田信玄のお屋敷があるのかと思いきや、神社だった。
武田神社は武田信玄公を御祭神としてお祀りしている。
甲陽武能殿、甲斐武田氏の軍学書「甲陽軍艦」より引用された。
疾如風徐如林侵掠如火不動如山。疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。
という事で甲府を満喫。甲府から身延線で静岡県の富士駅まで移動。距離にして88.4kmを2時間58分掛けて走り抜く。トナリで先に出発する「特急ワイドビューふじかわ」に乗れば1時間48分で着くのだが。でも、ここあえて各駅停車の旅をチョイスする。
出発前からやっちゃうのだ。
やはり、富士山は拝めそうにない。
八ヶ岳高原玉子と炭火焼肉弁当がビールにあうあう。3時間の鈍行旅を満喫するのであった。
富士駅から三島駅まで東海道線に乗り、三島からは伊豆箱根鉄道で伊豆長岡駅まで。
伊豆長岡駅へ到着。甲府を出て、はや4時間3分がたった。腰が痛いしビールでほろ酔い。
ビールでメンドクサイ病が発症し、自転車を組み立てる気が無くなる。伊豆長岡から周遊バスが出ていると、観光案内所の元お姉さんが教えてくれたので、「歴バスのる~ら」で韮山反射炉へと向うことにした。
1日乗り放題で300円。なんと韮山反射炉の入場料はこのバスチケットがあると500円が300円になる。
というわけで、ようやく世界遺産 韮山反射炉に到着。おぉ煙突がそびえているなぁ。などと。
入場料を払うと、まずはお勉強。映画もあるよと勧められる。
蘭書の記述のみで反射炉の研究を進めていた江川太郎左衛門英龍(坦庵)に嘉永6年(1853)幕府が建造を許可した。しかし病で倒れ、息子である江川英敏が佐賀藩の協力のもと安政4年(1857)に完成させた。
嘉永6年(1853)のペリー来航により命を受けた江川英龍(坦庵)は下田港に近い加茂郡本郷村(現下田市高馬)に建設を始めたが、ペリー艦隊の水兵が建設地内に進入するという事件がおき、代官所に近い現在の韮山に建設された。
東京お台場は、韮山反射炉で作られた大砲が置かれる砲台場から名づけられた。当時の最新技術で作られた西洋式カノン砲は28門配備された。
空にそびえる煙突の様相。
煙突は耐火煉瓦の組み積みで、高さは約15.7mある。築造当時は、暴風対策のために煙突部分の表面は漆喰で塗られていた。
間近に見上げると迫力がある。
炉体は、外側が伊豆の特産品である伊豆石の組み積み造り。内部は、伊豆天城山産出の土で焼かれた耐火煉瓦のアーチ積みとなっている。
倒壊防止の鉄枠が施されている。明治維新後、反射炉は陸軍省に移管され、使われることなく放置されていた。破損が進む反射炉を保存しようする運動がおこり、地域の有志の皆さんのご尽力で今日まで保存されてきた。
反射炉は、「ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」というヒュゲーニンが書いた蘭書を参考に、連双式のものを直角に2基配置し、四つの溶解炉を同時に稼動させることが可能だった。
幕末期、各地に反射炉が作られたが、当時のまま残っているのは萩と韮山の反射炉のみ。
反射炉は、銑鉄という鉄鉱石から直接製造した不純物を多く含む鉄を溶解して優良な鉄を生産するための炉。
銑鉄を溶解するためには千数百度の高温が必要で、反射炉は天井部分が浅いドーム形の部分に熱を反射集中させることで高温を実現する構造。
炉の内部も見ることができる。
出場口側。
最も多く製造された「鋳鉄製24ポンドカノン砲」。長さ約3.5メートル、重さ約3.5トン。鋳型に鉄を流し込むのに8 時間かかり、1週間かけて冷やした後、砲身に穴を開けるのにさらに30日かかるのだと。
現在は反射炉だけが残っているが、当時は周囲に炭置き小屋や型乾燥小屋、細工小屋、本錐台小屋、鍛冶小屋、御筒仕上小屋、水車小屋といった小屋や建物があり、鉄を造り大砲を生産する一大砲製工場だった。
やっぱり世界遺産は観光地化されて、反射炉に隣接する複合施設にはお土産屋「反射炉物産館」やクラフトビール「反射炉ビヤ」、網焼きレストラン「ほむら」がある。
遠目に反射炉を眺めながら駅に戻ろう。が、周遊バスはすでに終わっている。あぁ自転車で来ればよかった、などと今更ではある。
反射炉周辺は農村地帯。ということで徒歩で伊豆長岡駅まで戻るのだった。