和銅三年(710年)に元明天皇が律令制に基づいた政治をおこなう中心地として、それまでの都であった藤原京から遷都し、中国唐の都の長安を見習って整備された平城京は、国家の中枢として74年間機能した。
奈良には、ゴルフだぁ、キャンプだぁ、観光だぁ、仕事だぁと、なんだかんだよく行く場所。これまでも大仏さんを見たり、鹿にセンベイをあげたりと世界遺産のお寺にも行った事があるが、あらためて奈良の世界遺産を自転車で巡るポタリング。
世界文化遺産に登録された「古都奈良の文化財」の構成遺産は、東大寺、興福寺、春日大社、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、春日山原始林、全部で8ヶ所。そのすべてを1日で回り尽くそう。
古都奈良の世界遺産の場所は大きく2つのエリアに分けられる。奈良公園を中心とした春日大社、東大寺、興福寺、元興寺は自転車だとそれぞれを5分くらいで移動できる。歩きでも十分に散策できる。そして、奈良公園から6~7km離れた場所に唐招提寺と薬師寺がご近所に並び建つ。自転車でのんびりと走っても20~30分とポタリングにはいい距離だ。唐招提寺から北へ1kmほど進むと平城京跡が広がる。
今日のルートとしては、近鉄奈良駅を起点として、まずは若草山から春日山原始林の山岳コースを周遊し、春日大社、東大寺、興福寺、元興寺を巡る。その後、ならまち界隈で昼メシを食ってから、唐招提寺、薬師寺エリアへ、そして平城京跡を通り抜け、近鉄奈良駅へと戻る。ルート全体の移動距離は大した事はないが、暑さ対策のため春日山原始林の登り坂は早朝の涼しいうちにクリアしておきたい。そのため朝5時台の電車に乗る事にした。
前夜の宴会が影響し若干出遅れてしまったが、今日の輪行(電車にタイヤを外して袋詰めした自転車を乗せて移動する事)のルートは、大阪駅で大阪環状線に乗り換え、鶴橋駅から近鉄で奈良に入る。マルーンレッドにシルバーのラインを入れた復刻塗装の準急820系に乗る。。
焼肉の街、大阪鶴橋から近鉄準急で39分、近鉄奈良駅に到着。奈良は近鉄とJRの駅があるが、それぞれ場所が違う。近鉄の方が観光地に近くて便利な感じではある。
近鉄奈良駅周辺はビルも多く都会な感じだが、自転車で5分も走ると、やはりそこは奈良、古都の雰囲気をビシバシと感じる。
若草山を見上げてごらん、あんな上まで自転車で行くんだよ。と、鹿に話しかける。あぁ、朝の7時半なのに気温は30度。すでに暑さで頭がやられている。
いよいよ、古来より春日大社の神域として保護されてきた、春日山原始林の中を通る「春日山遊歩道」の入口に到着。踏み固められた砂利道なので走りやすい。
緩やかな坂道をガシガシと進む。これが原始林なのか? それとも普通の山道なのか? 自動車、二輪車は進入禁止。でも途中の奈良春日奥山 月日亭までは配達トラックが爆走している。奈良春日奥山 月日亭は、明治36年に奈良県知事が要人をもてなす施設として建てた料亭。一般客も利用でき、四季が織りなす風情の彩りを眺め、本格派の会席料理を堪能できる、らしい。
うっそうとした木々に日差しが遮られ、真夏といえどそれほど暑さは感じない。それでも坂道を漕ぎ上がるので、全身から汗が噴き出す。
若草山三重目に到着。ここの標高は342m、とはいえ近鉄奈良駅からの標高差は248mほど。
チャリダーもちらほら。
鹿はうじゃうじゃ。ほら、こんな山の上まで登って来たよと、鹿に話しかける。あぁ、暑さで頭がやられちまった。
若草山頂上からは「奈良奥山ドライブウェイ」を進む。十八丁。
花山地蔵の背。
春日山原始林 自転車で世界遺産!
春日山原始林は、1100年以上前に狩猟と伐採が禁止され、以来、春日大社の聖域として守られてきた。自然に対する原始的な信仰が発生して以来の日本人の伝統的な自然観と深く結びついて、今日まで伝えられてきた景観であることから、自然遺産ではなく文化遺産として登録されてた。
二股が途中でぶった切られたタイボク。
鎌倉時代に彫られた首切り地蔵。剣豪の荒木又右衛門が試し斬りしたらしい。なんちゅう事をするねん。
首切り地蔵の場所から、春日山遊歩道と古来からつづく柳生街道の「滝坂の道」とに分かれる。「滝坂の道」は、鎌倉時代初期には存在していたが、石畳は江戸時代の奈良奉行が命じて敷かせたもの。少し走ってみるがかなりの荒れ具合のため引き返し、春日山遊歩道を進むことにした。
ハイカーに気を付けながら、適度に下り坂を楽しむ。
木がデカい。
春日大社 自転車で世界遺産!
春日山遊歩道を降り、春日大社へ入って行く。というか春日山は春日大社の境内なので、すでに入っていたのだけども。
春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが始まり。
二の鳥居をくぐり参道を進んでいく。
南門。春日大社正面の楼門で高さは12mあり春日大社最大の門。
中門・御廊。本殿の直前にある楼門で約10mの高さがある。御廊は中門から左右に幅約13mあり鳥が翼を広げたように延びている。
東回廊は約37mあり、中央に影向門がある。
万燈籠再現 藤浪之屋。春日大社には平安時代から現在まで奉納された燈籠がおよそ三千基ある。すべての燈籠に浄火をともす春日万燈籠神事を再現するために藤波之屋を開放している。壁面には鏡がはめ込まれ光のマジックで幽玄の美を体験できる。
社頭の大杉。目通り周囲8.7m、高さ25m、樹齢約800~1000年。700百年ほど昔に書された『春日権現験記』には幼木の姿で描かれている。
春日大社を後にし、東大寺へ向う。東大寺へは自転車通行止めのため歩いて参拝する。みやげ物屋が建ち並び、観光客で溢れている。
東大寺 自転車で世界遺産!
すぐに東大寺へ到着。奈良時代は華やかな時代であると同時に、政変・かんばつ・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代であった。このような混乱の中、神亀元年(724年)二月、聖武天皇が24歳で即位し、皇太子基親王が神亀四年(727年)10月5日に誕生する。ところが、神亀五年(728年)9月13日、基親王は一歳の誕生日を迎えずして夭折する。聖武帝は、すぐに親王の菩提を追修するため金鍾山寺を建立し、良弁を筆頭に智行僧九人を住持させた。天平13年(741年)に、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。
東大寺 南大門。天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。正治元年(1199年)に上棟し、建仁3年(1203年)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。大仏殿にふさわしい日本最大の山門。
観光客だらけ。
仁王像の二体は、天平創建期から向かい会って立っており、山口県で伐採された木材が1年かかって搬送され、ほぼ70日間で二体同時進行で造像された。昭和63年に全面解体修理が行われ、古文書の記述通りだった事が証明された。
中門。大仏殿へは左に進む。拝観料600円なり。
中門にも仁王様。
大仏殿。創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建された。江戸期には柱とする材が調達できず、芯となる槻を檜板で囲い鉄釘と銅輪で締めて柱とした。そのため、創建時に11間(86m)あったが7間(57m)となった。現在でも世界最大級の木造建築であるが、往時の壮大さがうかがえる。
大仏殿の間口は54m、奥行きは50m、高さ47m。
近くで見上げると更にデカさを感じる。
盧舎那仏像。像高は14.7メートル。基壇の周囲70メートル。
大仏さんの右に脇侍として安置される虚空蔵菩薩坐像。
大仏さんの左に脇侍として安置される木造如意輪観音坐像。
大仏さんは、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の2回焼失している。 頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代に補修されている。台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁に線刻された華厳経の世界観を表す画像も天平時代の造形遺品。
大仏さんの鼻の穴と同じ大きさの穴が開いた柱。この柱の穴をくぐり抜けると無病息災のご利益があるとか。大仏殿の中心から見て北東側の鬼門にあたる柱に穴をあけ邪気を逃す役割をしている。
国宝 二月堂。旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音、小観音と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。
二月堂から大仏殿が見える。
鏡池越しに中門と大仏殿を眺める。
鹿と、おたわむれ中の鹿おじさん。
奈良公園には鹿と観光客だらけ。鹿せんべいを売るオバちゃんは、イタズラする鹿に容赦なく鉄拳パンチを食らわせる。
興福寺 自転車で世界遺産!
興福寺の前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源。その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営した。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされた。さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられた。
東金堂は、神亀三年(726年)に聖武天皇が叔母元正太上天皇の病気全快を願って建てたお堂。創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光世界を表していたが、6度の被災、再建を繰り返し、今の建物は応永二十二年(1415)に再建された。正面7間(25.6m)、側面4間(14.1m)、寄棟造り本瓦葺きの建物で、前面を吹放とし木割が太く、奈良時代の雰囲気を伝える。五重塔は5回の被災・再建をへて、応永三十三年(1426年)頃に再建された。高さ50.1m、初層は方三間で8.7m、本瓦葺きの塔。
南円堂は、弘仁四年(813年)に藤原冬嗣が父の内麻呂の冥福を願って建てた八角円堂。基壇築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝をまきながら築き上げたことが発掘調査であきらかになった。
国宝 北円堂は、興福寺創建者藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月に、元明太上天皇と元正天皇が建てたお堂。興福寺の伽藍の中では西隅に位置するが、ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地だった。今は人の流れが南円堂の方向のため、人目に付きにくい場所ではある。
国宝 三重塔。康治二年(1143)に崇徳天皇の中宮が創建したが、治承四年(1180)に被災し、間もなく再建された。北円堂とともに興福寺最古の建物で、高さ19.1m、初層は方三間で4.8m、本瓦葺き。こじんまりとして可愛らしくレプリカちっくなので、みんなスルーしているが実は国宝。木割が細く軽やかで優美な線をかもし出す。
猿沢の池から興福寺を眺める。放生会という万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ、興福寺が行う宗教儀式の池として、天平二十一年(749年)に造られた人工池。柳の木陰のベンチで近くのコンビニで買ったのり弁当を食う。
のり弁で満足満蔵。ならまちを元興時へと向う。さすが奈良、普通の街角に人力車が走る。
元興寺 自転車で世界遺産!
猿沢の池から数分で元興時へ到着。日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが元興寺。
500円を支払い、重要文化財の東門から境内へと進み入る。
国宝 極楽堂。東室南階大房の三房分を寄棟造、本瓦葺六間四面の聖堂に改造されたもの、僧坊の一室の身舎部を内陣とし、東妻を正面として前面向拝とした鎌倉時代新和様の堂々たる建造物。奈良時代の往生人智光、礼光両法師の禅室として、また、百日念仏講衆の往生極楽院として極楽堂、智光法師感得の浄土曼荼羅が祀られたので曼荼羅堂とも呼ばれた。
極楽堂の北流と西流、禅室の南流の東側の屋根瓦は、一般の本瓦と少し趣が違い、丸瓦も平瓦も重なり合って葺かれている。飛鳥時代の古式瓦を伝えている。法隆寺玉虫厨子の屋根表現はこの丸瓦を意識している。他に、京都東寺の講堂屋根の一部、深草宝塔寺の多宝塔下層、貝塚孝恩寺の釘なし堂、大分富貴寺大堂などにも残っている。元興寺の場合、解体修理の結果、使用可能な古瓦(飛鳥時代からの瓦)を集めて使用していることがわかっている。また、極楽堂西南隅、禅室南東隅には古代の軒平瓦が残っているのも注目すべき箇所。
国宝 禅室。元興寺旧伽藍の東室南階大房遺構、四房分を伝えている。切妻造、本瓦葺四間四面の簡素だが重厚な趣がある。僧侶が起居し、学修した官大寺僧坊の遺構で、平面図や雰囲気をよく保っている。建築様式としては鎌倉時代の大仏様を示しているが、構造材は奈良時代以前の古材を多く再利用されている。中世には春日影向堂とも呼ばれ、近世に客殿、近代には学校舎にも使われてきた。南西1間は影向間・須弥壇・宮殿厨子、北西1間は中世僧房として使われている。
ならまちの旧家が建ち並ぶ通りを行くと、浴衣の美女に合えるのだ。
ならまち格子の家。内部は無料開放、ひと通り覗いて見る。
ヒマワリも暑さのせいでうな垂れる。
今日は本当に暑い。現在12時にして34度。この後の奈良の最高予想気温は37度。こんな暑さの中、自転車で走り回るのは熱中症になりたいと言ってるようなもの。「アホちゃうか」と奥さんに褒められるだろうな。
田園風景の中を西へ進んでいく。爽やかな風は吹かず、熱風と熱線が容赦なくぶつかってくる。
唐招提寺 自転車で世界遺産!
唐招提寺。唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山。多くの苦難の末、来日した鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地を下賜されて、天平宝字三年(759年)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開いた。「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけだった。
南大門で拝観料を払い境内に進み入る。団体客が大量に行く手を阻むが、ガイドのスピーチで立ち止まった際にシュルシュルっと前に出る。国宝 金堂は、奈良時代後半に建てられた唐招提寺の本堂。
寄棟造りの金堂の屋根には鴟尾が乗せられている。向って左の鴟尾は創建当時のもの。右は鎌倉時代のもの。ともに宝物館に安置され、平成の大修理の際に新しいものへと置き換わっている。
金堂には、盧舎那仏像、薬師如来立像、千手観音立像など安置されている。千手観音立像はその名のとおり千本の手を有しているたいへん貴重な立像。だが、実際には破損したりと950本くらいだそう。
左が国宝 鼓楼。鑑真和上が唐から持ってきた仏舎利を納めた。右は礼堂。
国宝 講堂。平城京の東朝集殿を移設し講堂にしたもので、平城京の宮廷建造物で唯一現存する建物。
講堂には弥勒如来坐像、持国天像、増長天立像などが安置されている。
左は国宝 宝蔵。右奥には国宝 経蔵。
唐招提寺から薬師寺へは雰囲気のよい小道が続く。
薬師寺の土塀。奈良は京都よりも古い時代だからか、建造物がちょっとシブいというか、ボロいというか、朽ちてるというか。まぁそれが良かったりする。
薬師寺 自転車で世界遺産!
唐招提寺から10分ほどで薬師寺に到着。入口の場所からいうと、先に薬師寺にお参りしたほうが移動の効率はよかったようだ。
薬師寺は、天武天皇により610年に発願され、持統天皇によって697年に本尊開眼された。更に、文武天皇の時代に飛鳥の地で堂宇が完成した。その後、710年の平城遷都にともない718年に現在地へと移された。
金堂。昭和51年の復興。
西塔。昭和56年の復興。
金堂を中心に西塔と東塔を望む。薬師寺で唯一創建当時から残存している東塔は、平成32年まで解体修理中。
大講堂。中門と回廊とともに復興された。
金色の鴟尾。
大講堂は、正面41m、奥行き20m、高さ17mあり、金堂よりも大きく、伽藍最大の建物。
蒸し暑い今日、やすらぎのひとコマ。
薬師寺をあとにし唐招提寺の方向へ戻っていく。
池に浮かぶ島は宝来山古墳、垂仁天皇陵。上から見れば鍵穴のような前方後円墳。
唐招提寺の林をバックに、緑の中を走り抜けてく赤白の近鉄電車。
平城京跡 自転車で世界遺産!
10分ほどで、朱雀大路跡に到着。朱雀大路はかつての平城京を南北に貫くメインストリートだった。道幅は74m、大路の両側に柳が植えられていた。
世界遺産 平城京跡に到着。
朱雀門。平成10年(1998年)に復原。入母屋二重構造、間口約25m、高さ約20m。
朱雀門から二条大路の先に、朝イチでに登った若草山が見える。
朱雀門の先にはだだっ広い空間が広がり、遠目に第一次大極殿が見えている。
大極殿をアップで見ると、工事現場のような重機があったり、鉄骨で何かを建てていたり、電線が張り巡らされていたりと、何だかスッキリしない。
すると、電車が世界遺産の平城京跡のどまん中を走ってきた。平城京跡の敷地を近鉄奈良線が分断している。
世界遺産平城京跡のどまん中には踏み切りもある。
だだっ広い空き地にポツンと建つ大極殿。このエリアは第一次大極殿院といい、大極殿を含む南北約320m、東西約180mの区間で、古代の宮都における中心施設で天皇の即位や外国使節との謁見など国家の重要な儀式が行われた場所。
第一次大極殿。正面約44m、側面約20m、高さ約27m。直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中頃に、一時都とした恭仁宮に移築され、山城国の国分寺金堂になった。当時、天皇の即位式や外国使節との面会など、国のもっとも重要な儀式のために使われていた。
推定大膳職。