古都京都の文化財 銀閣寺、天龍寺、醍醐寺、金閣寺、龍安寺

延暦十五年(794年)10月に桓武天皇によって平安京が置かれた京都。平安京は三方を山に囲まれた盆地で、自然との調和を意識し唐の長安を見習い計画された都市。平安時代から鎌倉時代、室町時代を経て江戸時代に至るまで、歴史の舞台となった17の寺社城郭が、1994年に世界文化遺産に登録された。

登録された寺社城郭は、東寺、平等院、二条城、金閣寺、銀閣寺、天龍寺、龍安寺、延暦寺、清水寺、西本願寺、上賀茂神社、下鴨神社、仁和寺、西芳寺、醍醐寺、高山寺、宇治上神社の17箇所。

その2 では、銀閣寺、天龍寺、醍醐寺、金閣寺、龍安寺に行ったときの個人的記録。

東山慈照寺(銀閣寺)  夫婦で世界遺産!

銀閣寺の正式な名称は東山慈照寺。江戸時代に金閣寺に対して銀閣寺と呼ばれるようになった。起源は、室町幕府八代将軍 足利義政よって造営された山荘東山殿で、義政の没後に臨済宗の寺院となり慈照寺と名付けられた。

奥さんと二人で銀閣寺を訪れた。

銀閣は観音殿という。銀色でもないし、銀箔を貼られていた痕跡も無いようだ。などと知ってるのに知らないふりをする。

向月台という砂盛り。高さは180cmとデカめの男くらいある。もちろん、ぷっちんプリンのようには造れない。コテを使い手作業で造るこのクオリティは只者ではない。

銀沙灘(ぎんしゃだん)という縞模様の砂盛り。

山に登ると境内を見渡せる。

うーん。シブくていい感じ。などとゲスな感想を言い合う。

侘び&寂び。

天龍寺  家族で世界遺産!

天龍寺は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、暦応二年(1339年)に足利尊氏を開基として、夢窓疎石を開山として開かれた。かつては嵐山や渡月橋、亀山公園なども境内であり、広大な寺域と壮麗な伽藍を誇っていた。しかし、幾度も火災に見舞われ、さらには応仁の乱により大きな被害を受け、天正十三年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。寄進により順調に復興するが、蛤御門の変により伽藍は再び焼失した。

嵐山でボートに乗り、ゲソ焼きをアテにビールを飲みながら渡月橋を眺める、あぁ至福の時間。

川面を流れる風が気持ち良い。

渡月橋。

渡月橋を渡る。

ゆかたはいいね。

天龍寺の建つ嵐山は京都屈指の観光地。人力車の営業活動も盛んだな。

大本山 天龍寺

中に入ると、達磨図が迎えてくれる。娘の顔マネがツボにはまり大爆笑してしまう。娘には笑いに対して甘やかし気味ではある。

庭、心休まる。

庭、心落ち着く。

着物女子、心が弾む。

観光地化されたお寺。

もはや何のポーズか分からない。

醍醐寺  自転車で世界遺産!

874年、修験道の聖宝が上醍醐の場所に堂宇を建てたのが始まりとされる。904年に醍醐天皇により薬師堂が建立され、続く朱雀天皇、村上天皇の時代にかけて発展していく。笠取山の山上の上醍醐と麓の下醍醐にまで広がるが、応仁の乱で下醍醐は荒廃してしまう。そののち豊臣秀吉の保護により再興する。

歌川広重の東海道五拾三次や十返舎一九の東海道中膝栗毛などの影響で、今も一般的に東海道といえば江戸と京を結ぶ五十三次と広まっているが、実際は江戸日本橋と大阪高麗橋を結ぶ東海道五拾七次が正式なのだそう。という事で、大阪高麗橋から京都髭の茶屋を目指し自転車で走る。道中、醍醐寺に吸い寄せられてしまいちょっと寄り道をする。

東海道五十七次の伏見宿を出発し、いよいよ京三条大橋から続く五十三次の合流地点、髭の茶屋を目指す。途中で醍醐道と合流。醍醐道といえば世界遺産醍醐寺への参拝道。道草グセが出て、少し寄り道。醍醐寺へ向う。

総門から入りましょう。

醍醐寺は、聖宝理源大師が貞観16年(874年)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得て小堂宇を建立し、准胝と如意輪の両観音像を安置したのが起源。

三宝院は、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建され、醍醐寺の本坊で座主が居住する坊。三宝院庭園は、国の特別史跡名勝。入りたかったが拝観時刻が過ぎていた。

国宝 唐門は、朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる門。門全体が黒の漆塗で、菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施されている。

西大門(仁王門)。豊臣秀頼が、慶長10年(1605)に再建した門。仁王像は、もとは南大門に祀られていた像で、平安後期の長承3年(1134)に仏師勢増・仁増によって造立された。

国宝 金堂。醍醐天皇により延長4年(926年)に創建された。当時は釈迦堂といわれていたが二度焼失。現在の金堂は豊臣秀吉の命によって紀州湯浅から移築が計画され、慶長5年(1600年)に完成した。この金堂が醍醐寺の中心のお堂で、安置されている薬師如来坐像が醍醐寺のご本尊。

国宝 五重塔。醍醐天皇のご冥福を祈るために、朱雀天皇が承平6年(936)に着工し、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。高さは約38メートルで、屋根の上の相輪は約13メートルあり、相輪が塔の三分の一を占め安定感を感じる。京都で最も古い木造建築物。内部には両界曼荼羅や真言八祖が描かれ、日本密教絵画の源流をなす。

観音堂。ご朱印はココで。

コケがいい感じ。

という事で、世界遺産 醍醐寺をゲット。

鹿苑寺(金閣寺)  夫婦で世界遺産!

京都を代表する金閣寺。舎利殿の金閣が有名なため金閣寺と呼ばれているが、正しくは鹿苑寺といい、臨済宗相国寺派の禅寺。この場所は鎌倉時代に西園寺公経の別荘の北山第があったが、三代将軍 足利義満が気に入り、応永四年(1397年)に譲り受け山荘北山殿を造った。義満の没後、義満の法号である鹿苑院殿から鹿苑寺と名付けられた。

今日は三連休最終日。奥さんと二人で銀閣寺を訪れた。

今日は奥さんと二人で京都観光にやってきた。2度目となるがベタな金閣寺とセットで龍安寺も参拝するモクロミ。でも奥さんは嵐の大野君が京都時代に過ごした場所を巡る聖地巡礼ってヤツをしたいって言うのだ。

三連休なのでめちゃめちゃ参拝客で溢れているかと思いきや、関空閉鎖でインバウンド客が減っているよう。

参道を進み入る。

それでも外国人の比率が高い。総門から境内に進み入る。

庫裏で写経できます。有料エリアは大人400円で拝観できる。入場券はお札。

鏡湖池(きょうこち)のほとりに建つ金色の舎利殿。鏡湖池に浮かぶ最大の島は葦原島。その他、亀島、鶴島、入亀島、出亀島などなど。

舎利殿。今日はあいにくの曇り空、晴天の日だと眩いほどに光り輝く。金色部分は岩手県産の浄法寺漆という漆の上から108mm角の金箔を20万枚貼っている。金の総量は約20kgで1億円なり。。

一層目は法水院という神殿造り。二層目は潮音洞という武家造り。三層目は究竟頂という禅宗仏殿造り。

頂上には金色の鳳凰が輝く。屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねたこけら葺き。

金閣の撮影のため、池のほとりに群がる。

金閣ばかりに目がいくが、方丈が鹿苑寺の本堂なのだ。

金閣裏側へと進んでいく。雨どいまでも金色なのには驚いた。

金閣から鏡湖池に突き出した納涼台的なものは瀬清という。釣りをしながらBBQなんぞできそうだ。

三層目の内部は床面が黒漆塗り、天井と壁は金箔貼り。両脇の上部が弧を描く窓は花頭窓といい、その間の扉は桟唐戸という。

銀河泉という足利義満公がお茶の水に使った泉。

巌下水は足利義満公が手洗いに使った泉。

竜門滝

金閣寺垣を登ると安民沢。

順路どおり進むと夕佳亭という数寄屋造りの茶室が建つ。茶席から見る夕日に映える金閣が殊(こと)に佳(よろ)しいらしい。

そして順路どおり進むとお土産屋さんが軒を連ねる。

ベタなところで生八つ橋。ニッキ風味のモチモチっとした皮につぶあんが入る定番の味。

龍安寺  夫婦で世界遺産!

徳大寺家の別荘であったものを、宝徳二年(1450年)官領 細川勝元が譲り受け寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建された。応仁の乱で焼失し、明応八年(1499年)に勝元の子である政元が再興したが、寛政九年(1797年)に火災により方丈・仏殿・開山堂などを焼失した。

三連休最終日、奥さんと二人で京都を訪れた。金閣寺から、きぬかけの道を龍安寺へと向う。

龍安寺の駐車場はなんとタダ。などと浮かれながら山門から境内へと進み入る。

左の竹製の柵は龍安寺垣というらしい。

鏡容池には蓮が浮き花が咲いている。

石段を登り、庫裡へと入る。禅宗寺院建築の庫裡は、木組みの白壁がモミジの葉越しに美しい。

寺西乾山 筆「雲関」。大雲山の玄関ということらしい。

寺西乾山 筆 漢詩「飲酒」。

方丈へと進む。今の方丈は、1606年に建てられた西源院の方丈を移築したもの。

そして方丈の縁側越しに広がるのが日本を代表する枯山水、石庭。土塀に囲まれた幅25m奥行き10mの空間に、白い砂が敷き詰められ、大小15個の石が置かれている。白い砂は横向きの模様が基本。石の周りは波紋のように広がる模様が付けられている。

作者不明、意味も不明、でも心落ち着く。

砂と石と苔だけで表現する石庭。見る人の自由な解釈に委ねられている。海なのか宇宙なのか、はたまた無限の心なのか、何か底知れないものを感じる。小汚くも見える土塀もまた空想を沸き立たせる。

外人さんはどう思う?

臥龍梅 皐月鶴翁 画。明治初期までは金地に極彩色で描かれた狩野派の襖絵であったが、明治政府による廃仏毀釈により寺は衰退し殆どの襖絵は売却された。平成22年にアメリカのオークションに出品された「群仙図」(ぐんせんず)4面と「琴棋書画図」(きんきしょがず)2面が龍安寺によって落札された。その他一部の襖絵はメトロポリタン美術館やシアトル美術館に所蔵されている。返してやれや!とも思うが、今の襖絵も石庭とマッチしていい感じではある。

非公開の襖絵。開へ放たれ龍の右足だけが見える。

方丈の西側の庭。

この先の仏殿や西の庭は非公開なので立ち入り禁止。

銭形の蹲踞(つくばい)。五、隹、疋、矢と刻まれているが、中心の水穴の口を共用し、吾、唯、足、知(われただたるをしる)と読む。 ※ 疋の字ではないが、活字に無いので致し方なし。

方丈の東側の庭。樹齢400年という日本最古の侘助椿がある。

という事で、石庭・方丈を出る。勅使門は閉ざされている。

こちらの門は仏殿に入る門。

西源院と桜苑を抜けて行く。

龍安寺名物の湯どうふ屋がある。

昼メシまだ食べてない、湯どうふ食べようか? 湯どうふ1人前1,500円也。湯どうふだけだと300円の席料を取られる。二人で3,600円かぁ~。

湯どうふはあきらめ、蕎麦でも食いに行こうか。鏡容池の向こうに大珠院が見える。