紀伊山地の霊場と参詣道  吉野・大峯

世界文化遺産に登録された、「紀伊山地の霊場と参詣道」は、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の3つの霊場と、「大峯奥駈道」、「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」、「高野山町石道」の参詣道で構成されている。これは「自然と人間の営みによって形成された景観」という、一般的な文化財の枠組み越えた幅広い内容を含んでいる。古くより神々が宿る場所として崇拝され、山岳修行の場所となった山々や、昔から今なお受け継がれている修験の文化や、門前町の風情を残す町並み、参詣道を徒歩で進み行き自然と接触を重ねること、御神木として献上され保護されてきた木々、それらが文化的景観として評価された。

吉野・大峯 

「吉野・大峯」は、女人禁制の修験道の聖地で、標高1,500mを越える険しい山々が続く大峰山脈のうち青根ヶ峯までを「吉野」、青根ヶ峯より南が「大峯」と呼ばれている。「吉野」は、古代から山岳信仰の対象であったが修験の隆盛に伴い開祖とされる役行者の聖地として重視された。「大峯」は、険しい山に入って苦行を重ねながら踏破するという実践行を重んじる修験道の舞台であり、冬には氷雪に閉ざされる険しい峯々が信仰の対象とされ、数多くの行場や拠点となる社寺を結ぶ「大峯奥駈道」が世界遺産に登録されている。霊場として、吉野山、吉野水分神社、金峯神社、金峯山寺、吉水神社、大峰山寺が世界遺産の構成に含まれる。

吉野山には奥さんと桜の花見の季節や紅葉狩りの季節に出かけたが、ともに若干シーズンを逃した感がある。桜の花見や紅葉狩りと称して酒を飲むことしか考えていない自分の心を見透かされたかのように、電車はイヤ!車じゃないと行かない!と言う奥さんを説得しきれずあえなく車で出かけた秋の日。吉野川を渡り、近鉄吉野駅を目指してきた自分が間違いだった事に気付くのは、駅前観光案内所に立ち寄り親切なおばちゃんと話をしたときだった。吉野駅前に車を停めロープウェイで吉野山を目指そうとしていたが付近に駐車場は無い。来た道を戻り吉野山観光駐車場へと車を走らす。桜と紅葉のシーズンは吉野山観光駐車場から先へは車の進入はできないようだ。

車を降りプラプラと歩いて行く。下千本と呼ばれるこの付近、道から見える尾根の斜面には、役行者が本尊を彫刻したという伝承にちなみ献木する、という宗教行為によって植え続けられてきた桜が広範囲に分布している、と、案内には書かれているが晩秋の今日は枯れ木の山になっていた。

もらった地図を頼りに世界遺産と紅葉を愛でる。

奥さんとデートのように土産物店などが建ち並ぶ門前町を歩いていく。赤い橋は大橋と呼ばれ、元弘の乱の際、護良親王が吉野山を要塞化するにために造った大塔宮吉野城の空堀に架かる橋。

吉野ロープウェイ。現存する日本最古の索道路線。これに乗って登ってきたかった。駅前に駐車場があればいいのに!

高麗門様式の「黒門」は吉野山の総門。昔は公家や大名といえども槍を伏せ馬や駕籠から降りて通行した。現在の黒門は昭和六十年に金峯山寺本堂蔵王堂の大屋根大修理にあわせて改築された。そう言われればコンクリの基礎でガッチリ固められている。

鮎の塩焼き500円也。うまそう!

世界遺産 銅の鳥居(Kane no Torii)

世界遺産「銅の鳥居」は、吉野山から山上ヶ岳まで4つある門の最初の門で、東大寺大仏鋳造の際に残った銅で建立したらしい。

修験者は鳥居に手を触れ「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と唱えて入山するらしい。とりあえずスリスリしておこう。

「銅の鳥居」は、修行に先立ち意志を固めるための発心門だとか。なので扁額には「発心門」と書かれている。

表は逆光だったのでよく分からなかったが、裏側から見ると銅製であることがよく分かる。日本三鳥居は、この銅の鳥居と、安芸の宮島 厳島神社の大鳥居、大阪四天王寺の石の鳥居だそう。なぜ真横に電柱を立て面前に電線を張るのか、関西電力のセンスの無さが分からん。早々に改善して欲しいと願うばかり。

修行僧ではないので地酒を買って帰ろう。辛口原酒 吉野山 1,400円也。

世界遺産 金峯山寺 仁王門

金峯山寺 蔵王堂の北側に建つ国宝 仁王門。高さ20.3mもある二階建て本瓦葺き重層入母屋造り。これも世界遺産。残念ながら今、仁王門は約70年ぶりの大修理をおこなっている。

この仁王門は正面を北向きにしており、南向きに建つ本堂とは背を向けるようにして建っている。熊野から吉野へ向かう巡礼者と、吉野から熊野へ向かう巡礼者の両者に配慮したもの。

仁王門の修理の間、仁王像も修理に出され今日はお留守であった。延元三年(1339)に造られた阿形像、吽形像は2年掛けて修理され、寺に戻るのは10年後だそう。

修理中の仁王門をくぐり、境内へと進んでいく。

世界遺産 金峯山寺 蔵王堂

金峯山寺は、修験道の霊場である吉野の中心的伽藍として、また山岳信仰の霊地として平安時代中期以降信仰を集めてきた寺院である。

金峯山寺の本堂である世界遺産 蔵王堂は、桧皮葺きの重層入母屋造りで高さ34m、四方に36mと堂々とした佇まい。現在の建物は天正二十年(1592)に完成した。シブすぎて涙が出らぁ~、と奥さんを見るとスマホでLINE中だった。

山上ヶ岳の大峰山寺の本堂を「山上蔵王堂」と呼ぶのに対して金峯山寺の本堂は「山下蔵王堂」と呼ばれた。

金峯山寺の開創は、役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に金峯山に修行に入り、修験道独特の本尊 金剛蔵王大権現を感得され、現在の蔵王堂が建つ吉野山に祭祀された。

明治7年(1874年)明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は廃寺となり復職神勤したが、明治19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興する。

修験道とは、日本古来の山岳信仰に神道や外来思想の仏教や道教などが混合して成立した日本独特の民族宗教。秘仏本尊蔵王権現 三体のほか多くの尊像を安置している。

修験道とは、「修行は難苦をもって第一とす。身の苦によって心乱れざれば証果自ずから至る」という聖句が伝えられている。そんな辛いことはやりたい人に任せて、自分はソフトクリームをいただく。

吉水神社の参道で振り向くと目に鮮やか。

世界遺産 吉水神社

世界遺産 吉水神社は、明治初年の神仏分離令及び修験道廃止令により神社となったが、もとは吉水院と称した金峯山寺の一院だった。源義経が吉野潜伏の折りこの寺に起居したと伝えられ、後醍醐天皇が一時期行在所としたことでも知られる。

一目千本。吉水神社の境内からは、中千本と上千本の山桜を一望できるスポットがある。が、晩秋の今日は枯れ木の山でしかない。

延元元年、京の花山院に幽閉されていた後醍醐天皇が行幸され、吉水院宗信法印の援護のもと吉水院を南朝の皇居とされた。

もとは吉水院とよばれ金峯山寺の格式高い僧坊だったが、明治の神仏分離令により、後醍醐天皇・楠木正成公・吉水院宗信法印公を御祭神とする神社となった。

境内には拍手を打つ音がパンパンパンパンと幾つも幾つも響いている。きっと作法を知らない外人たちが、面白がって手を叩き続けているのだろう。

と思いきやなんと、二礼 十七拍手 一拝とある。な・な・なんと17回も拍手を打つのか。17の神様が祀られているためのようだ。

世界遺産 書院へ入ってみよう。こちらの拝観は有料600円也。

吉水神社の書院は、日本の住宅建築で最も古い書院として、重要文化財に指定され、世界遺産に登録された。鎌倉時代の典型的な住宅建築で随所に珍しい手法が見られる。

なにやら藁細工がぶら下がる入口から踏み入れると、まずは鶴の間。

鶴の間の襖には群鶴。

つづいては、源義経潜居の間。文治元年(1185)十二月、源義経は兄の頼朝に追われて吉水院に身を隠し、静御前、弁慶らと共に5日間この部屋で再起を計った。

床の間は間口が広く奥行きが浅い構造をしており、他に類の無い最古の床の間といわれている。

普通、釘隠しは、鉄や銅を用いられて作られているが、この書院の釘隠しはすべて木製。その他、柱はすべて面取りされていたり、鴨居は長押に直接三本の浅木を打ちつけていたりと、最古の建築が垣間見れる。

つづいて後醍醐天皇玉座。桃山時代の特徴を残している。

延元元年(1336)京の花山院に幽閉されていた後醍醐天皇が行幸され、吉水院宗信法印の援護のもと吉水院を南朝の皇居とされた。南朝は四代に渡り57年間続いた。

鬼を従えた役行者の像。デーモン閣下にしか見えない。

書院の庭からは金峯山寺の蔵王堂が望める。庭先には後醍醐天皇が京都へ向かって祈られた北闕門(ほっけつもん)がある。吉水院は大峰山への入山許可証を発行する場所でもあったことから、ここで九字真法による邪気祓いを行い平穏無事を祈った。

さらに奥へと歩いて行く。道の両側にはカフェやお土産屋が軒を並べる。この辺りは中千本と呼ばれる地域。

矢的庵という蕎麦屋を発見! 昼時で少し待って案内された。

ざるソバと天ぷら盛り合わせの最強コンビ! ソバは大好きでよく食べるし、美味そうな店を探してみたりするのだが、通ぶった輩がよく言う「ソバの風味が」とか「まずはツユに付けずに食べる」とかっていうのがよく分からない。いまだにソバの風味がどれなのか分からないし、ツユを付けずに食べても美味しいとは思わない。

目に鮮やか。

デザートは吉野葛餅。やさしい食感と甘味でございます。