原爆で尊い命を落とされたすべての方にお悔やみ申し上げます。
そして、今なお苦しむ被害者の方々にお見舞い申し上げます。
未来の平和のために、核兵器の無い世にするのは皆の勇気と行動力。
明治27年(1894)に勃発した日清戦争当時の広島は、東京を起点とする鉄道の西端でかつ大型船が運用出来る港があったことから戦地前線への兵站基地となった。さらには、大日本帝国軍の最高統帥機関として東京の参謀本部内にあった大本営が広島城内に移設設置されることとなり、明治天皇も戦争指揮のため広島へ移られた。明治29年(1896)に広島大本営が解散するまでの間、第7回帝国議会が開会されるなど、国の立法・行政・軍事の最高機関が集積し、一時的ではあるが広島は首都の機能を担った。
軍事都市として発展した広島は、その後も伝統的な工業や軍事需要による近代的な工業が発達し、さらには明治37年(1904)に起きた日露戦争により、ますます経済規模が拡大した。経済発展により国内の市場競争に打ち勝つ製品を開発し販路を開拓する拠点の整備が必要不可欠となり、大正4年(1915)に「広島県物産陳列館」が竣工した。この建物が、今、「原爆ドーム」と呼ばれる世界遺産となる。
「広島県物産陳列館」はチェコ人の建築家ヤン・レツル氏が設計し、椋田組が施工をおこなった。構造は一部鉄骨を使用した煉瓦造で、石材とモルタルで外装が施されていた。3階建てのヨーロッパ風の建築デザインで、正面中央部分は5階建ての階段室があり、その上に高さ4mの銅板の楕円形ドームが載せられていた。1階が事務室、2階及び3階が陳列用に当てられていた。庭園の広さは600坪ほどあり、洋式の庭園には噴水を備えた池があり、和風の庭園には四阿が備わっていた。広島県の物産品の展示や販売、他府県の参考品の収集や陳列をおこない、美術展や博覧会などの文化事業の会場としても利用された。大正10年(1921)に「広島県立商品陳列所」、昭和8年(1933)には「広島県産業奨励館」と名称が変更され、昭和19年(1944年)からは内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社などの事務所として使用されていた。
昭和20年(1945)8月6日 午前8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」から投下された原子爆弾は、広島県産業奨励館から南東に約160m、高度約600mのところで炸裂した。広島産業奨励館は爆発の1秒後には凄まじい爆風と熱線を浴びて崩壊し、そして天井から火を吹き全焼した。爆風はほぼ垂直に降りてきたため、建物の中心部は倒壊を免れたが、建物内の人々は全員即死した。爆心地中心付近では風圧35t/㎡、風速400m/秒もの衝撃波と、約4,000℃もの熱線、そして250シーベルトもの放射線を放った爆発は、わずか10秒後には衝撃波が半径4kmの範囲に広がり広島市を壊滅させた。
相生橋からの原爆ドーム
元安川の対岸からの原爆ドーム
2階と3階のほとんどの壁は被爆により崩れ落ちている。
原爆ドームは、平成8年(1996年)ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録された。
建物の屋根やドーム部分は鉄骨部分を除き、多くは木材で作られていたため、真上からの爆風に対して耐力の弱い屋根を中心につぶされ、厚く作られていた側面の壁は完全には押しつぶされず、倒壊を免れた。
被爆の悲惨な思い出を想起するため、取り壊そうという意見もあった。
1歳で被爆し白血病になって16歳で亡くなった楮山ヒロ子さんが残した日記の「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」という言葉に心を打たれた人たちによって保存への運動が始まった。
1992年(平成4年)に広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択し、市長は翌年1月に要望書を文化庁に提出した。
日本国政府は、原爆ドームは歴史が浅く文化財に指定できないため推薦要件を満たさない、として原爆ドームの推薦には消極的であった。
1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合では、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させた。
中華人民共和国は「日本の戦争加害を否定する人々に利用されるおそれがある」として審議を棄権した。
顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの、として世界遺産登録された。
二度と同じような悲劇が起こらないように
T字の形をした相生橋。上空からも非常に目立つため、原爆投下の目標点とされた。
爆心地。 テニアン島から飛来したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、相生橋を目標地点に原子爆弾を投下したが、300mほど南西側に建つ島病院の上空600m付近で炸裂した。
広島平和記念資料館 見学し終わった時、激しい怒りと深い悲しみに苛まれた。
在りし日の広島産業奨励館。
左は長崎の人々の尊い命を奪ったファットマン。全長3.25m、最大直径1.52m、総重量約4.5t
右は広島の人々の尊い命を奪ったリトルボーイ。全長3.12m、最大直径0.75m、総重量約4t
8月6日の広島。月曜日の朝を迎え目を覚ます。昨夜も空襲警報が出ていたため睡眠不足ではある。今日の天気はすこぶる快晴、暑い1日になりそうだ。朝の支度を済ませ、さあ今日も頑張るぞと動き始めた矢先にまた空襲警報が出る。が、すぐに解除となり安堵と共に仕事に取り掛かっていた8時15分。
爆心地では、圧倒的な破壊力の爆風と熱線により木造の建物は全壊全焼、丈夫な建物も窓は吹き飛び室内は焼失する。そして人々は一瞬にして消滅してしまった。
模型で比較するとその威力の凄まじさを目の当たりにする。
皆、楽しそうで素晴らしい笑顔だった。
深い悲しみと強い怒りを感じる。
目頭が熱くなり涙が止まらない。
資料館から平和公園を望む。あまりの悲しみに頭痛がする。
死没者慰霊碑には今日もたくさんの人が祈りを奉げる。
核兵器を廃絶するまで人類は自分で自分の首を絞めている。
平和な世のため自分ができる平和の鐘を打ち鳴らそう。
子供たちの未来に平和な世をプレゼントするのは今。