滋賀県の東部に位置する彦根城は、姫路城、松本城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されている。現存12天主と呼ばれる天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めている。
彦根城は1992年に世界文化遺産の暫定リストに記載され世界遺産の候補となった。正式な推薦のためにはユネスコに提出する「推薦書」が必要で、この「推薦書」には世界遺産としての価値の説明と、遺産を保護するための計画の説明が記載されなければならない。現在は滋賀県と彦根市が協力し「推薦書」の原案の作成を進めている。「推薦書」が完成し国内で推薦候補に選ばれると、国からユネスコに「推薦書」が提出され、イコモスの審査を経て世界遺産委員会で登録の可否が決定する。
慶長9年(1604年)徳川家康の命により佐和山城を一掃するため彦根城は着工された。天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築され、2年足らずで完成した。しかし、表御殿の造営、城郭改造など、城郭の完成は元和8年(1622年)とされている。 井伊直孝は、徳川秀忠、家光、家綱の三代にわたって将軍の執政となり、幕府政治確立にも貢献し、譜代大名としては例のない30万石となる。このほかに幕府領5万石の預かりがあり、彦根藩は合わせて35万石となった。
明治の廃城令により解体の危機にみまわれていたところ、明治11年(1878年)明治天皇が北陸巡幸を終え彦根を通られたときに城保存の大命を下された。
そんな彦根城に奥さんとJR新快速に乗りプチデートと称して出かけた。桜の季節だがあいにくの雨降り。雨でもひこニャンはがんばっていた。
御城内御絵図 文化11年(1814年)
彦根御城下惣絵図 天保七年(1836年) 彦根城は琵琶湖の水を引き入れた水城。
google earth 外堀や北側の港だった地域は埋められているが、天守や櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀など当時の姿を留めている、すばらしい城と城下町。今も堀の水は琵琶湖から引き入れられている。
今回はプチデート企画。彦根城に行く前に奥さんには先にエサを与えてご機嫌を取っておかなければならん。なぜなら彦根城の見学時間が短くなるから。という訳で彦根駅から雨の中を歩き、夢京橋キャッスルロードへとやってきた。ここには近江牛の肉うどんを食わしてくれる「麺匠ちゃかぽん」がある。
うどんの上に近江牛の薄切り生肉が載っている。熱々のダシは自分でかけて食べるのだ。
熱々のダシのかけ具合で肉のレア度が調整できる。こんなうどんを食わせておくと、奥さんはすこぶる機嫌がよろしい。
さくら満開の彦根城に到着。あぁ青空の下でこの景色を見たかった。ここは南西側の中掘。江戸時代の彦根城は、内堀・中堀・外堀という三重の堀に囲まれていたが、現在は外堀は大部分が埋られてしまい土塁がわずかに残っている。内堀と中堀はほとんどが当時のまま残っている。
京橋口から内掘へと進んでいく。
城の中心にそびえる天主は、完成が慶長12年(1607年)ころであると推定されている。もともと5階4重の大津城の天守を3階3重で移築した可能性が考えられている。
大きな切妻破風、入母屋破風、唐破風を複雑に組み合わせている。
三重の天守は牛蒡積みの石垣の上に建つ。
2階と3階には花頭窓 を配置し、3階には高欄付きの廻縁を巡らせている。
2024年度の世界遺産登録へ向け、江戸時代の藩主や武士たちが彦根城とその周辺に住み、一体となって「統治」していた社会構造に着目し、個別の領地を支配していた戦国時代の武士が、江戸時代に統治者へと転換したとし「彦根城がその統治を表した代表的な城だ」としている。
天主からは琵琶湖や伊吹山が見渡せるらしいが、あいにくの天気で残念。
原木を生かした建築。
彦根城には、天秤櫓、太鼓門櫓、西の丸三重櫓、佐和口多聞櫓と4つの櫓が残っており、すべて重要文化財に指定されている。しかし雨降りプチデートのためじっくり見学はおろか写真を撮るのも忘れていた。
玄宮園は17世紀後半に造られた庭園で、池を中心にさまざまな自然の景観が再現されている。城主らはこの庭園で和歌た漢詩、茶の湯、武芸などを実践した。
ひこニャンと嬉しそうにツーショットを撮るのは奥さんではなく、写真見せろとも言っていないのに「私も彦根城に行ったよ~」と勝手に画像を送信してくる知人A。
青春18きっぷで彦根城 レンタサイクルで城めぐり
夏の青春18きっぷシーズン到来。今日は午前中に明石城を登城したあと彦根へとやってきた。
今日は駅前のレンタサイクルで彦根城を周ってみよう。駅のコンコースからは天守ががかろうじて見える。
自転車は機動力がいいね。黄色線が今日進んだルートだが、まぁ実際はもっとウロウロしている。
彦根駅から西へ自転車をこぎ護国神社を経て中掘にでる。堀端の松並木は「いろは松」。
佐和口多聞櫓越しに天守が見えている。
佐和口から城内へとは進まず、中掘沿いを進むと、旧鈴木屋敷長屋門があり風情がある。
中掘の南東の角。
京橋。橋を渡ると城内だがまだ入らない。現在の正門は「表門」になっているが、当時は「大手門」であり、大手門へ向かう入口の京橋口には厳重な造りの二重櫓門で固められていた。
京橋の南側の街並みは「夢京橋キャッスルロード」といい、江戸時代の城下町のような雰囲気があり、白壁と黒格子の町屋風に統一されたお店が軒を並べる。
南側の中掘を進む。
ちらほら天守が見えるが、どうにも樹木が茂りすぎていて「おぉすごい!」とはならない。城山を覆う深緑の木々は、城郭の構造を隠し、さらには敵の攻めに合い籠城する際には食料や薬などに用いるよう植えられたから。
中掘の南西の角。
船町口付近。
西の丸三重櫓が見えている。層塔型の三層三階で、壁は白漆喰総塗り込め、屋根は本瓦葺。破風などの装飾が無いのでいたってシンプルなデザイン。
船町口。
船町口から場内に入ると内堀が広がっている。北側の内堀に沿って大手門橋の方へ移動する。
天守が見えるが木々が茂り過ぎの感は否めない。
内堀に架かる大手門橋。
自転車を降り、歩いて大手門橋を渡り城内へ入ってみよう。
大手門虎口。大手門だが今は門も櫓も残っていない。ここから大手山道を行けば本丸に登る事ができる。日本で数少ない登り石垣もある。が、これ以上は進まず、再び大手門橋を渡り内堀の外に出る。
京橋口桝形。櫓は無い。ココを出ると先ほど見た外堀に架かる京橋がある。
京橋口の桝形を入るとすぐに構えている、旧西郷屋敷長屋門。彦根城下では現存する長屋門の中で最大のもので、旧武家屋敷の面影を残す貴重な遺構。
再び大手門橋の前を通り、船町口の方へ内堀沿いを戻る。
彦根西中学校から内堀に沿って北に進んで行くと行き止まりとなる。かつては山崎郭へ渡る橋が架かり山崎門があった。ひとまずUターンし船町口から中掘の外にでる。
彦根城の西側に立地する滋賀大学彦根キャンパスの校舎から西の丸三重櫓と天守を望む。やはり全体的に木々が茂り過ぎている。
天守は木々に隠れてよく見えない。街のどこからでもよく見えるようになればなぁ、と思ったりするが、城の防御の考えで植えられているのでしょうがない。
西の丸三重櫓。三重櫓には北と東に1階建ての続櫓が張り出し、城の搦手を守る重要な櫓。10mを越える石垣の上にそびえ立ち、城の西側の搦手を守る前線基地。
山崎郭にも三重櫓が建っていたが、明治維新の後に破却されている。山崎郭は木俣屋敷があった場所で、凱旋した井伊直孝を迎えた場所。
観音台越しの天守。
櫓の無い櫓台の石垣が連なり勇ましい。
黒門橋。内堀に架かる橋は3つあるが黒門橋は唯一の土橋。
「楽々園」と「玄宮園」の板塀が続く。江戸時代にはそれぞれ「槻之御庭」と「槻御殿」と呼ばれ、槻御殿は四代藩主 井伊直興が延宝5年(1677)に造営した藩主下屋敷が現存していて、現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けている。
玄宮園入口。今日は入らない。玄宮園は4代藩主井伊直興により延宝5年(1677)に造営された大名庭園で、近江八景を模してつくられている。
一旦、佐和口から出て、あらためて「いろは松」を眺める。第3代井伊直孝の時代に、通行の妨げとならないよう根が地上に出ない土佐松を47本植えたことから「いろは松」と呼ばれている。現在は34本残っている 。
佐和口。いろは松を通り彦根城へと入る際に、待ち構える様に櫓が建っている。
佐和口に向かって左に建つ佐和口多聞櫓は明和8年(1771年)に再建されたもの。
佐和口に向かって右に建つ佐和口多聞櫓は昭和35年(1960年)に再建されたもの。
いろは松から進むと最初の入口として立派に再建されている。
佐和口の桝形。櫓に囲まれカギ型になった進路がたまらなくシビレる。が、車が入れるようにしたのはイカン。アスファルト舗装もカーブミラーもいらない存在。正面の不自然に途切れ空間には、かつては二階二重の櫓門が建ち、睨みを効かせていた。
重要文化財の佐和口多聞櫓の裏手は残念ながら駐車場。こういうセンスの無さが許せない。駐車場はぜひ城の外に確保してもらいたいものだなぁ。
佐和口に建つ馬屋。馬屋とあなどる無かれ、元禄時代(1688〜1703)に建てられたもので、全国で唯一、城内に残る馬屋なのだ。
当時の建物はやっぱりいいね。馬屋の門でシビレる。
馬屋の建物はL字形になっていて、21頭の馬を収容することができた。
馬の足元の床は糞尿が流せるような仕掛けとなっている。
馬を繋いでいた縄の跡が柱に残っている。まさに現存のホンモノの建物でしか味わえない、しびれるポイント。
表門橋。
現在の正門は「表門」。
表門を入ると廃城令により明治に解体された彦根城表御殿の跡地に彦根城博物館として御殿が復元されている。
ひこにゃンがいた!
マルバツクイズのお仕事中。ファンクラブもある人気っぷり。
表門の脇から鐘の丸の南東角の石垣の下まで「登り石垣」で固められている。
当時は石垣上に瓦塀が設置されていた「登り石垣」は、敵が山の斜面を移動するのを困難にさせるために、山の斜面に沿って縦に築かれた石垣。けっして石垣を伝って登っていくためのものではない。日本の城には松山城と洲本城、そして彦根城にしか見られない。そして彦根城には5箇所も築かれている。
徳川家康より琵琶湖の支配を任されていた彦根藩には、160隻以上の軍船が備えられ、琵琶湖の水を引き入れた水城だった。
東側の内堀は曲線を画く。今日は時間が無くなり、本丸への登城はしなかった。それでもシビレるとってもすばらしいお城でした。
レンタサイクルを返却し、帰りの電車用のビールとつまみを調達し、井伊直政公に別れを告げる。