飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群

「飛鳥・藤原」は、天皇を中心とした統一国家「日本国」の形成から成立までの過程を証明できる、6世紀末から8世紀初めまでの日本の首都であった。隋や唐や朝鮮半島の高句麗・百済・新羅との強い交流の中で、先進の政治・宗教・文化・技術を導入し、伝統的な政治・宗教・文化・技術と融合・発展させて、我が国独自の政治制度や文化を作り上げた記憶が顕著に刻まれている。歴史・文化の舞台となった歴史的な風土が、長い時を超えて現在でも良好な遺構として存在している。

「飛鳥・藤原」は、奈良盆地の東南に位置する丘陵に囲まれた飛鳥、その北側の香具山、耳成山、畝傍山に囲まれた藤原からなる。GoogleEarthより

592年に推古天皇が飛鳥に豊浦宮を開いてから、710年に藤原宮から平城宮に遷都するまでの間の、いわゆる飛鳥時代に多くの天皇がこの地に宮を置いた。日本の古代政治の中枢で、律令国家もこの地を基点に誕生し、その形成から確立までの過程を解明できる古代都市空間であり、当時、ここには天皇の宮殿や皇子の宮、そして大陸からの知識・技術を取り入れて建設された諸寺院の伽藍がそびえていた。また、飛鳥時代後半には律令国家の体制の基礎固めとなる都城として中国の都に学んだ藤原京が建設され、本格的な古代国家が始動した。

「飛鳥・藤原」では東アジア・東南アジアの諸外国との交流の中で国家の体制を整えていったことが、建造物や古墳などの構築物にとどまらず、諸外国の人々を迎え入れた寺院、迎賓館や庭園から出土する遺物にも認めらる。またこの地域には諸外国の技術を受容した先進的文物を制作した工房等が存在していた。

この時代には律令国家の根幹をなす国家儀礼・官僚・身分・税などの制度の完成、そして日本の経済制度に大きくかかわる貨幣の鋳造がおこなわれた。また、律令国家体制の確立は、人々の死後世界にも影響し、身分秩序体系が墓(古墳)の立地、形状、規模、内部構造に導入された。

飛鳥時代は、我が国初の歌謡を集めた万葉集、初めての歴史書・正史にあたる「古事記」「日本書紀」の編纂がされた時期でもあり、飛鳥・白鳳文化として花開き、次の「古都奈良」を中心とした天平文化へと受け継がれ、昇華していった。このように「飛鳥・藤原」の地は古代日本の首都であり、現在に至る我々の生活習慣の礎となっている。

都が「飛鳥・藤原」の地を去った後、多くの寺院が残されたが、平安時代の終わりにはこれらの寺院は衰退していく。飛鳥・白鳳文化に育まれた宮殿や寺院、庭園、工房などは時を通して水田や里山として埋没し、現在、地下に良好な遺構として存在している。

万葉歌が読まれた飛鳥時代の風土や石造物は時間を超えて現在にも受け継がれ、目のあたりにすることができる。特に大和三山は、万葉集や古今和歌集に多数詠まれ、その眺望は日本を代表する歴史的景観を有している。世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会より

奈良の橿原地区は1年間ほど仕事で担当した事がある。待ち時間や昼メシの後、仕事終わりなんかに、ちょいちょいっと観光してみた。

大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)

大和三山に囲まれた平野部分には、藤原京の中心であった藤原宮が造営されていた。

香具山。天香山神社、天岩戸神社が鎮座する。

畝傍山。麓には神武天皇陵や橿原神宮、畝火山口神社が鎮座する。

畝傍山の北東の麓には神武天皇陵が築かれている。日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇は、日向地方から瀬戸内海を東に進んで難波に上陸したが、生駒の豪族に阻まれたため熊野へ南下した。そこで出会った3本足の「八咫烏」に導かれて、吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて大和地方を平定した。そして、紀元前660年1月1日に橿原宮で即位し初代の天皇になった。

神武天皇陵は円丘で周囲は約100m、高さ5.5mの広い植え込みがあり、幅約16mの周濠が廻らされている。

畝傍山の西側の麓には畝火山口神社が鎮座する。創始の由緒は不明。

耳成山。耳成山口神社が鎮座する。

藤原京跡

碁盤の目のように整然と大路が整備されていた。宮の中央に天皇が住まわれた内裏、政治儀式を執り行う大極殿や朝堂院、役人が集まる朝集殿があり、その周りに日常業務を行う官衙が配置されていた。 宮建物は堅固な基壇を持つ礎石建ちで屋根には瓦が葺かれていた。

藤原宮跡。ここが藤原京の中央に位置していた場所。朱塗りの宮殿が建ち並んでいる風景を、想像力をめちゃめちゃ働かせて目に浮かべてみよう。

だだっ広い草原に、大極殿院閤門跡を示す朱塗りの柱が並び立つ。柱はウレタン材で円形の礎石と朱塗りの柱を再現している。地中の遺構保護のために土台の工事を行わず、下に鉄板を敷いて固定されている。

大極殿院閤門跡から朝堂院南門跡を望む。その先は真っ直ぐ朱雀大路へと続いていく。

大官大寺址

大官大寺址。大官大寺は、文武天皇(在位697-707)が建立に着手した国家の寺で、飛鳥・藤原地域で建立された古代寺院の中では最大の寺院だが、現在は田園地帯に石碑が建つのみ。広大な寺院があった風景を、想像力をめちゃめちゃ働かせて目に浮かべてみよう。

大官大寺の伽藍配置は、中門・金堂・講堂が一直線上に南北に並び、金堂の南東に九重の塔を配置する形態だった。寺の敷地は東西約205m、南北約354mもあり、金堂と講堂は正面が約45mもあり規模も構造も同一であった。九重の塔は、基壇が一辺約35m、塔は一辺15mもあり、高さは不明だが、平面規模が近い東大寺東塔は約100mあることから、大官大寺の塔もこれに近い高さだったと推測される。

甘樫丘

甘樫丘。日本書紀には誓盟の神が鎮座し允恭天皇の時代に盟神探湯が行われた場所との記述がある。大化の改新以前には、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を天下に示すために丘の麓に邸宅を構えていた。

飛鳥 水落遺跡・石神遺跡

飛鳥水落遺跡。かつて我が国で初めての水時計を建造した建物跡。

石神遺跡。斉明天皇の頃は東西の区画になっており、西側は日常生活の場、東側は掘立柱建物と共に井戸や石溝が配置されており迎賓館や饗宴施設と推定されている。

水落遺跡や石神遺跡の周辺は田んぼが広がる田園地帯。

想像力をフルに働かせると、遺跡もこんな感じに見えてくる?

石人像 飛鳥資料館蔵。 石神遺跡から明治時代に出土した石像。飛鳥調の衣装をまとい、岩に座り盃を口にあてている男性に女性が後ろから手をそえている。石造の下から男女の口まで内部に細い管が通っていて水が噴出すように造られている事から噴水施設であったと推測されている。

須弥山石 飛鳥資料館蔵。 石人像とともに明治時代に石神遺跡から出土した噴水の機能を持つ石造物で、庭園のオブジェとして設置されていたと推測されている。

あすか夢の楽市。飛鳥 水落遺跡と石神遺跡に隣接して建つ「あすか夢の楽市」は、道の駅のように地場で取れた農産物などが売られている。高めの値段設定を付ける道の駅が多いが、あすか夢の楽市は安めの値段設定。なもんで、いろいろと買ってしまう。

飛鳥寺

想像力をフルに働かせると、田んぼもこんな感じに見えてくる?

のどかな山間の田園地帯に、古代こんなにも立派な宮があったとは、信じがたい。

石舞台古墳

石舞台古墳は、我が国最大級の方墳で、天井石の上面が広く平らで舞台のように見えるその形状から石舞台古墳と呼ばれている。

国営飛鳥歴史公園。

日本書紀に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は蘇我馬子を指していることから、蘇我馬子の墓ではないかという説が有力である。

墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状。

30数個の岩の総重量は約2,300トンにもなる。天井の石は約77トンもあり運搬や積むといった土木技術は優れたものであった。

石室がむき出しにされた古墳は他には無い。権力の誇示のため最初から巨大な石をむき出しにして造られたのか、はたまた蘇我氏への罰として盛り土を破壊されたのか、想像のイキを出ないが歴史のロマンを感じる。

亀石

造られた理由がわかっていない謎の石造物。長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.8m、重さ10トン超え。

正面から見ると亀ではなくカエルかカッパかっていう感じ。

横から見ると亀に見える。

鬼の雪隠(Oni no Secchin)

鬼の雪隠は、もとは古墳の石室の一部だったが、古墳が壊され現在の姿になった。

花崗岩をくり抜き中央が空洞になっている。欽明天皇陵の石室の蓋石と考えられている。

鬼の俎(Oni no Manaita)

鬼の俎は、古墳の床石と考えられている。

長さ約4m、幅約2m、厚さ1mもある巨大な花崗岩。

猿石

吉備姫王墓。斉明女帝の母、吉備姫王の墓とされている。近くの水田から掘り出された猿石がここに置かれている。

愛称は、僧と男。愛称の付け方が雑だな。

僧。

愛称は、山王権現。ちょっと考えた感はある。

山王権現。愛嬌のある表情をしていて、四体で一番親近感がある。

山王権現の左にいるのは女。愛称が女って雑だな。

欽明天皇陵

欽明天皇陵は、全長約138mの前方後円墳。欽明天皇の墓といわれているが、最近では見瀬丸山古墳を欽明天皇陵とする説がある。

じゃあここは誰の墓?

高松塚古墳

高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、下段直径23m、上段直径18m、高さ5mの二段式の円墳。

飛鳥資料館のレプリカ。石室は凝灰岩の切石を組み立てたもので、南側に墓道があり、南北方向に長い平面がある。石室の大きさは、南北約265cm、東西約103cm、高さが約113cmと狭い。

壁画は石室の東壁・西壁・北壁・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。西壁には、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。

東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の太陽、女子群像が描かれている。

キトラ古墳

キトラ古墳は、二段築成の円墳で上段が直径9.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さは上段・下段あわせて4mを少し超える。

飛鳥資料館のレプリカ。天井に描かれた天文図は現存する世界最古の科学的な天文図で、天の赤道や太陽の通り道である黄道が描かれている。北斗七星など中国式の星座が配置されて、太陽と月も描かれている。