宇和島城は、天慶4年(941年)橘 遠保が藤原純友の乱を鎮定する際、この地に砦を構えたとされるのがはじまり。嘉禎2年(1236年)西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、現在の城山に丸串城と呼ばれる砦を築く。
慶長元年~6年(1596~1601)に、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎によって戦国時代の山城から近世の海城へと変わった。当時は大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張りだった。天守は自然の岩盤の上に複合式望楼型の三重天守が築かれていた。
慶長20年(1615)に伊達政宗の長男 秀宗が入城すると、明治を迎えるまで9代にわたって宇和島伊達家の居城となった。2代城主 伊達宗利は、寛文元年~12年(1661~1672)にかけて多くの石垣や矢倉を改修し、天守は現在も残る3重3階の独立式層塔型天守に改築した。
明治4年(1871年)明治政府により兵部省に帰属し、明治33年(1900年)頃より矢倉や城門などが解体される。昭和9年(1934年)天守と追手門が国宝保存法に基づき、当時の国宝に指定されるが、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)7月12日に襲われた宇和島空襲により追手門を焼失してしまう。
宇和島城下絵図 元禄十六年(1703年) 当時は城の北と西側は海に面していた。南と東側は海水を引き入れた堀で割られていた。五角形の縄張りは一辺が空角になる「空角の終始」で、敵に四角形と惑わせる様に造られている。
Googlemap2020 現在は城郭の周りすべてが埋め立てられ街ができている。三の丸をはじめ総郭部分は失われている。
元禄末期の本丸には天守の他に五大所と呼ばれる屋敷や矢倉が数多く建っていた。
Googlemap2020 現在の本丸には天守の他に建物は残っていない。五大所や矢倉は石の基礎跡が残るのみ。
卯之町駅からJR予讃線で宇和島に向かう。宇和島方面の時刻表を調べると、8時38分発の鈍行の後は4時間以上もの間特急しか走っていない。しょうがないので特急 宇和海に乗る。アンパンマン列車がやって来てちょっとテンションが上がる。
学生もしょうがないので特急に乗って通学しているようだ。当然ながら特急料金が上乗せになる。
卯之町駅から19分で宇和島駅に到着。南国ムードのヤシの木に少しテンションが上がる。駅前には宇和島鉄道の1号機関車が飾られていてさらにテンションが上がるが、レプリカだと知り若干テンションが下がる。
宇和島駅からプラプラと歩いて宇和島城に向かう。袋町商店街は立派なアーケード街だが人が少ねぇ!
腹減った! 鯛の刺身をタレと混ぜ合わせてご飯に乗せて食べる宇和島鯛めしを狙っていたが、鯛とハマチと中トロとシラスそして温泉卵が乗った海鮮丼に心奪われてしまった。宇和島鯛めしはまたの機会に取っておく。
上り立ち門。城山南側の搦手道口に位置する上り立ち門は、慶長期に創建された最古で最大級の薬医門形式の建造物。かつてはここ搦手道口から天守に至るまでに7つの門があったが現在残っているのはこの上り立ち門だけ。でもココからは登城しない。
標高80mの城山の上にそびえる天守は、近づきすぎると周りの建物や木々によりスッキリとは見えない。城山の全貌を見晴らせるビルの屋上を探してみるが見当たらない。
城山の西側、三の丸跡から登城しよう。この付近、当時は御殿が建っていたが、今はハコスカとジャパンが停まっている。石垣の手前には移築された桑折氏武家長屋門が建っている。宇和島城下で唯一現存する長屋門。
いきなりの急な石段が続く。宇和島城は300年以上も火災に遭っていないため巨木や珍しい植物も多くあるというが、苔むす傾斜のきつい石段をゼイゼイと息切れしながら登っているのでそれらには気付かない。
急な石段の先には虎口が待ち構える。往時は目の前の石垣の上には矢倉が建ち、虎口を曲がると門があり厳重に守りを固めていた。手強い城だったに違いない。
虎口を入ると井戸丸という郭。井戸丸というだけあって井戸がある。柵で囲まれ重厚な金属の格子が覆っているが直径2.4m、深さ11mもある。
井戸の縁には金石文が刻まれた石があり、文政4年に壊れたので翌年に修理したという事と、携わった奉行や役人、大工、棟梁の名前が刻まれている。
さらに石段を登って行かねばならん。
ようやく石垣の上に天守が見えてきて元気が出る。
本丸までもう少し登らねばならん。
本丸石垣。この面の石垣は二種類の積み方の違いが見て取れる。右側の下半分は「野面積み」で、石材を加工せず自然石をそのまま積み上げている。隙間や出っ張りができ敵に登られやすいという欠点があるが、排水性に優れ頑丈なのだ。この特徴から17世紀初頭頃に築かれたと思われる。一方、左側の上半分は「切り込みハギ」というノミで方形に整形した石材を密着させ積み上げている。下半分は「打ち込みハギ」という表面に出る石の角や面を叩いて平たくし、石同士の接合面の隙間を減らして積み上げている。さらに隅角部は石材の長い面と短い面を交互にしながら積む「算木積み」の技術が徹底されてなく、石垣技術の伝承が薄れてくる幕末頃に修理されたと思われる。
当時は、本丸の石垣の上には土塀と矢倉が建ち守りを固められていた。明治の末に解体されている。残念。
二の丸から天守を望む。
三重の小じんまりとした天守だが、均整がとれていて美しくカッコいい。
櫛形門跡から本丸へ入る。石組みは御大所の跡。明治初頭まで本丸には、天守・御大所の他に北角矢倉、南角矢倉、櫛形門矢倉、御鉄砲矢倉、御休息矢倉、御弓矢倉、轆轤矢倉、石髪矢倉が建ち、土塀で囲まれていた。現在は天守が残るのみ。観光で来たと思われる家族連れのお母さんからは、「え~これだけなん!小っちゃ~!」という声が聞こえてきたが、「とてもとても貴重なホンモノの天守でっせ!」と心の中でさけぶ。
現在の天守は、伊達家二代藩主 宗利により寛文六年頃(1666年)建築が完了した。なぜか天守は西北西に向いて建っているのだが、最上階から周囲を眺めた時にその意味が分かった。
寛文二年(1662年)から寛文十一年(1671年)に行われた改修の際に、修理という名目で建て替えられた。改修というが実際には藤堂高虎が岩盤上に建築した望楼型天守を撤去し、石垣の天守台を持つ当時の最新式の層塔型天守に新造している。
独立式層塔型三重三階の天守の壁は長押で飾られた白漆喰の総塗籠式で仕上げられ、各階の屋根には千鳥破風と唐破風が配置されている。高さは15.72mと小ぶりながら御殿建築の意匠が随所に見られ、とても格式を重んじた造りとなっている。各階が同じ比率で小さくなっているので安定感がありとても美しい。
天守の入口は西北西に向いているので、こちら面は北北東。つまり入口に向かって左側。長押と武者窓が印象的。
南側から望む。
反対側と同じデザインの西南西側。日が射していると白さが際立つ。
天守の入口は唐破風屋根が用いられている。玄関を建物の中央に配置せず、やや右に配置することで優美さが増している。
玄関を入ると5段の木の階段があり、登った先の土戸から天守内に入る。
天守1階は中心に内室があり、その周囲を武者走りが囲んでいる。内室には天守模型と甲冑が展示されている。左から豊臣秀吉、伊達秀宗、伊達政宗の甲冑。でもこれはレプリカ、ホンモノは東京国立博物館、宇和島市立伊達博物館、仙台市博物館にある。
天守2階。1階と同様に中心に内室があり、その周囲を武者走りが囲んでいる。内室は1階と同じ広さがあるが、武者走りの幅は狭くなっている。
3階の最上階。1階2階の内室よりも広く、壁には武具掛けや煙出しの窓があり、階段の欄干には装飾が施されている。
最上階から外を眺めると正面に海が見えた。当時の宇和島は陸の孤島で、海は城山の手前まで迫っていた。宇和島へは海から船でしか入って来れなかったため、天守が西北西に向いて建っているのは海側から見た時に正面となるよう設計したのかもしれない。
日振島から双胴型高速艇「しおかぜ」がやってきた。高速艇の最高速度は25ノット(46.3km/h)。
宇和島駅方向。ぎっしりとビルで埋め尽くされている。こちら側も海を埋め立て市街地となっている。
天守の後ろ側。こちら側が古くからの宇和島の町だった。
南方向。すてきな町、宇和島。