松山城 Matsuyama Castle

昭和46年(1971)6月撮影  松山城の現在の天守は安政元年(1854年)に建てられた3代目。連立式三重3階地下1階の層塔型天守で、高さは21.3mあり、1階と2階の外部は黒塗下見張り、塗籠角格子の窓には突上げ板戸を配し、屋根には千鳥破風や軒唐破風が付れられている。3階の外部は白漆喰塗りで、格子がない引戸窓の外には外廻縁と高欄が付けられている。

標高132mの勝山(味酒山)に築かれた松山城は、南北朝時代に湯築城に対峙するため南朝方が砦を築いたのが始まり。慶長7年(1602年)10万石の正木城主(松前城)であった加藤嘉明は、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増された際、手狭となった正木城(松前城)から勝山に城を移築することとした。嘉明は勝山の麓に城下町を建設し松山という地名を付けた。1627年(寛永4年)嘉明は松山城の完成直前に会津藩へ転封となり、出羽から蒲生忠知が24万石で松山藩主となる。寛永11年(1634年)忠知は参勤交代の途中に病死し、嫡子がない蒲生家は断絶する。寛永12年(1635年)松平定行が伊勢桑名から15万石で松山藩主となり、以降、徳川譜代の松平氏が14代にわたり明治維新まで松山藩主としてこの地を治めた。

寛永19年(1642年)創建当初は五重であった天守を、松平定行が三重に改築する。造成された山頂部の本丸は削り盛りしているため地盤が弱かったためなのか、勝山の山頂に建つ五層の天守があまりにも立派であったため、幕府に遠慮して低くしたのかは、推測の域を出ない。

天明4年(1784年)落雷により本壇の主な建物などとともに天守が焼失してしまう。

安政元年(1854年)第12代藩主 松平勝善が大天守や本丸の本壇を再建する。現在の天守はこのとき再建されたもの。

明治3年(1870年)三の丸が失火により焼失。明治4年(1871年)、二の丸も失火により焼失。

明治6年(1873年)廃城令により大蔵省と内務省所管となり、城門や櫓、御殿などが払い下げられ建物が解体される。

昭和8年(1933年)放火により大天守を除く本壇の現存建築(小天守、南隅櫓、北隅櫓、玄関、玄関多聞櫓、十間廊下、多聞櫓、筋鉄門、内門)を焼失。

昭和10年(1935年)天守など35棟の建造物が当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。

昭和20年(1945年)松山空襲により天神櫓、馬具櫓、太鼓櫓、巽櫓、乾門、乾門東続櫓、太鼓門、太鼓門続櫓、乾門西塀、太鼓門東塀、太鼓門西塀を焼失。

昭和24年(1949年)不審火により筒井門、筒井門東続櫓、筒井門西続櫓を焼失。

昭和25年(1950年)21棟が文化財保護法施行により国の重要文化財となる。天守、戸無門隠門、隠門続櫓、乾櫓、野原櫓、紫竹門、紫竹門東塀、紫竹門西塀、一ノ門、一ノ門南櫓、一ノ門東塀、二ノ門、二ノ門南櫓、二ノ門東塀、三ノ門南櫓、筋鉄門東塀、三ノ門、三ノ門東塀、仕切門、仕切門内塀。

令和元年(2019年)9棟の復元建造物が国の登録有形文化財に登録される。小天守、南隅櫓、北隅櫓、玄関、玄関多聞櫓、十間廊下、多聞櫓、筋鉄門、内門。

松山城下図屏風 元禄期(1688〜1704)推定 愛媛県歴史文化博物館収蔵  松山を西の方角から俯瞰し、松山城の周りに武家屋敷や町人町を配し、北の御幸寺山から南の石手川までを描いている。

Googlemap2019  昭和20年7月の松山空襲により街のほとんどが灰となるが、戦前の道路構成を基本として区割りを行ったため、城下町時代の町割りを残している。堀の一部が埋め立てられた三の丸(堀之内)には野球場や競輪場、市営プール、県民館、国立病院があったが移転され、市民会館も近く松山駅再開発に合わせ移転する。NHKはどうするの?

松山城下町宝暦図 宝暦4年(1754)個人所蔵 一部分のみ抜粋

この絵図は「元禄松山城下町図」を写し、宝暦4年当時の屋敷割と家臣名を書き替えたものだとか。武家の住む侍町と徒士町は城山の南と北に、町人町は城山の北西と南東に広がる。

Googlemap2019  慶長7年(1602)に加藤嘉明が町割りを行った当時から街区の基本的な構造は変わっていないが、堀の一部や町内に縦横に走っていた水路は埋められたり地下水路化されている。空襲により街のほとんどが灰となり、市街地には往時をしのぶ建造物はほとんど無い。

松山城下町宝暦図 宝暦4年(1754)個人所蔵 城山部分の抜粋  本丸と二の丸は誇張され3Dで画かれているので建築物群や廓の構造がよく分かる。とても貴重で素晴らしい資料。

Googlemap2019  城山へはロープウェイとリフトで登る事ができる。山の中腹にテレビ塔が建っている姿は見慣れた景色。

本丸案内図 現存の建造物が多く残り、復興された建造物も多い。

挨拶で松山城(平成3年)

平成3年(1991年)付き合っていた2人は神戸からダイヤモンドフェリーに乗船し、松山の実家に挨拶に向かうのであった。スーツの肩パッドが時代を感じる。彼女は松山に初上陸であった。

家に帰る前に時間つぶしがてら城山に登る。ロープウェイを選ばず、リフトで松山城の山頂を目指す。

スカートの彼女を急階段の一ノ門南櫓へ登らせる。

本丸から南方向を望む。あの辺が実家やで、などと話したような無いような。

どこの場所かは今となっては分からない。

休憩場所ではないが、デートっぽいので楽しかったような気がする。

本丸跡から天守を望む。

2人はこのあと実家に挨拶へ行くのだった。

挨拶も済み、ホッとして道後温泉を満喫する。

帰省で松山城(平成16年)

お兄ちゃんは本丸で一番高い17m石垣に挑む。

筒井門。

本丸跡から天守を望む。妹ちゃんは実家でお昼寝お留守番。

天守の急階段。

天守最上階でダッシュする。

子供の頃は廻縁に出られていたような気がする。