天正3年(1575)織田信長は越前平定のため再度越前に攻め入り、豊原寺などの一向宗の拠点を攻略した。信長は、柴田勝家の甥である伊賀守勝豊を豊原の地に派遣し豊原城を築かせたが、天正4年(1576)「まるこの岡」と呼ばれていた現在の丸岡城の場所に移した。これが現在の丸岡城となる。
天正10年(1582)清洲会議により柴田勝豊は近江国長浜城に移されたため、柴田勝家は安井家清を城代として置いた。天正11年(1583) 豊臣秀吉によって柴田勝家が北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり青山宗勝が丸岡城主となる。丹羽長秀の死後、青山宗勝は豊臣秀吉の家臣となるも、慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで敗者となる西軍方につき青山家は改易された。越前国には徳川家康の次男である結城秀康が入封し、家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ丸岡城に入城した。慶長17年(1612) 越前騒動で失脚した今村盛次に代わり、幕府附家老の本多成重が4万3千石で新たな城主となる。寛永元年(1624) 本多成重は福井藩より独立し大名となり丸岡藩が成立した。現在の天守は寛永年間(1624~1644)に建造されたとされている。
元禄8年(1695)本多重益の時代にお家騒動が起こり本多家は改易となり、越後国糸魚川藩より有馬清純が5万石で入城する。その後有馬氏は8代に渡り明治維新まで丸岡藩の藩主として丸岡城を居城とした。
明治6年(1873)明治政府による廃城令により陸軍省の財産となるも、丸岡城は不要な城として廃城が通達され大蔵省の普通財産となる。城の土地、天守や城門、武家屋敷などの建物、樹木などすべてが入札により払い下げられるが、天守は地元の有志たちの協力によって買い戻され取り壊しは免れた。しかし天守以外の建物はすべて取り壊されてしまう。明治34年(1901)天守は丸岡町に寄贈され公会堂となり修繕工事が行われるが、環濠や堀は開墾され明治終期から昭和にかけて埋め立てられ水田などになる。
昭和4年(1929)に施行された「国宝保存法」にもとづき、昭和9年(1934)に「国宝」に指定される。
坂井市教育委員会 丸岡城国宝化推進室 丸岡城調査研究パンフレットより抜粋
太平洋戦争直前の昭和15年(1940)年から3年かけて解体修理が行われ、竹原吉助氏による精緻な図面と実測図、着工前や工事途中そして竣工時の写真が残された。
昭和23年の福井大震災により天守は石垣とともに完全に倒壊するが、火災による消失は免れ、部材の解体保管が行われた。昭和30年(1955)保存されていた建材を可能な限り使用し、竹原吉助氏による精緻な図面と実測図、着工前や工事途中そして竣工時の写真により当時の天守を忠実に再建することができた。
復興のための用材は80%近く古材を使用している。
越前国丸岡城之絵図 国立公文書館蔵 原図サイズ:東西181cm×南北190cm 一部分のみ抜粋
正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されている。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを早くから紅葉山文庫に収蔵した。幕末の同文庫の蔵書目録『増補御書籍目録』には131鋪の所蔵が記録されているが、現在、国立公文書館に63鋪の正保城絵図が所蔵されている。
Googlemap 城郭を取り囲んでいた環濠や堀はすべて埋められているが、区割りで在りし日の姿が想像できる。
越前国丸岡城之絵図 国立公文書館蔵 原図サイズ:東西181cm×南北190cm 城郭のみ抜粋
変形五角形の環濠に取り囲まれまさに要塞である。
Googlemap 環濠や堀、二の丸、三の丸跡に残る遺構は何も無い。
往時は変則五角形の環濠に囲まれていた。この姿で残っていて欲しかった。
ということで今回、福井へは、とある会合に出席するためやってきた。昨日は会合の後、懇親会という名の宴会で飲み過ぎ、今日は若干二日酔い気味。
恐竜ブームと北陸新幹線開業間近に沸くJR福井駅前から丸岡城行きの京福バスに乗る。
福井駅前から45分ほどで終点の丸岡城バス停に到着。途中、心地よい揺れとのどかな車窓の景色、そして若干の二日酔いのためうたた寝してしまう。バスを降りると丸岡城天守の建つ小高い丘が目の前に飛び込んできた。隣接には日本庭園様式の霞ヶ城公園と歴史民族資料館が整備されている。
標高約17mの独立丘陵の上に建つ丸岡城の天守は、外観は二層、内部は三層の望楼型独立式天守。二階に千鳥破風を配したデザイン。現在は国の重要文化財。
現在、天守の屋根の上に据えられている鯱は、昭和27年(1952)に築城当時の様式だった木製銅板張りで復元されたもの。
最近の学術調査により、天守は江戸時代の寛永年間(1624~1644)に建てられたとみられることが分かった。天守の柱や梁など主要部材について、年輪、放射性炭素、酸素同位体比の三つの年代調査を実施し、主要部材の多くが江戸時代の1620年代後半以降に伐採されたことが明らかになった。
一階の側面には石落としが張り出している。天守の石垣を登ってくる真下の敵に石を落としたり弓や鉄砲を撃つところ。
石垣は、野づら積みという古い方式。石と石のすき間が多く粗雑な印象だが、大雨での排水がよく崩れる心配がない。
天守へ登る石段横に置かれている鯱は、木彫銅版張りの鯱であったものを、昭和15~17年の修理の際に石製の鯱に改めたもの。 その当時は戦禍中で銅版の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で作り変えられたが、昭和23年6月の福井大震災により棟から落下してしまった。
石段を登り天守へ入ってみよう。
石がはみ出し不安定に思うが、大丈夫なんだろう。
天守入口。
天守一階のこの柱が、丸岡城で一番古い木材らしい。ピンボケだが・・・とりあえず、歴史を感じながらスリスリしておく。屋根まで貫く通し柱は無く、1階が2,3階を支えている。
急角度の階段で二階へと登る。ロープが垂れ下がっていて登るのをアシストしてくれる。上りよりも下りの方が怖いなぁ。
二階内部。湾曲した梁がシブすぎる。
狭間から敵はいないかとのぞき見る。瓦は笏谷石で作られたもの。その昔は杮葺きだったというはなし。
破風の懸魚越しに東方を眺める。向こうに見える山間に三千坊といわれた豊原寺が建っていた。
足羽山山麓から産出された笏谷石の瓦で葺かれている。瓦は1枚の重さが20~60kgもあり、全体で約6,000枚も葺かれ屋根全体で120トンにもの重さになる。木造の建物の上に荷物を満載にした大型10tトラックが10台も乗っかっている、と思うとゾッとする。
二階から三階へと登る。スカートの女性は気を付けなはれやっ!
三階が天守最上階。梁のまぁ太いこと。
天守最上階の切妻屋根内部。
天守最上階から西の方角を望む。
天守最上階から西の方角を望む。
初代城主柴田勝豊が丸岡城築城の際、天守の石垣が何度も崩れるので人柱を入れることになり、子をかかえて苦しい生活をしていた「お静」は、子を侍に取り立ててもらうことを条件に人柱となった。その後、丸岡城は無事完成したが、柴田勝豊は近江長浜へ移ることとなり、結局、お静の子は侍にはしてもらえなかった。それから、田植えの準備の頃になると、堀から水があふれるほど雨が降るようになり、人々はこれを「お静の涙雨」と呼ぶようになった。
バス停前に建つ、そば処 一筆啓上茶屋で、越前おろし蕎麦を食ってみる。地元丸岡産の早刈り蕎麦はウグイス色の実をしているので麺もうっすら緑色。