高知城 Kochi Castle

山内一豊は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川方に味方し土佐一国を与えられる。翌年の慶長6年(1601年)土佐国に入国し浦戸城に居城したが、現在の高知城の場所である「大高坂山」を新しい城の地と定め築城着工にかかった。慶長8年(1603年)本丸と二ノ丸の石垣工事が完成し、本丸・詰門・廊下門・太鼓櫓が竣工した。「大高坂山」の地名を「河中山」と改め、初代藩主山内一豊が入城する。慶長15年(1610年)二代藩主の山内忠義は「河中山」の地名を「高智山」と改め、翌年の慶長16年には三ノ丸が完成し、着工以来10年目にしてほぼ全城郭が整う事となった。

山内豊敷が八代目の藩主であった享保12年(1727年)城下町から出火した大火により追手門を残し天守はじめほとんどの建物を焼失してしまう。延享3年(1746年)本丸の再建に着手し、寛延2年(1749年)天守が完成する。現在の天守はこの時のものが現存している。宝暦3年(1753年)三ノ丸が完成し、再建を着手して以来25年目を経てほぼすべての建物が整った。

明治2年(1869年)16代続いた山内家の統治による高知藩は幕を閉じる。明治6年(1873年)明治政府による廃城令により、天守等の本丸周辺建造物と追手門を残し城郭建造物がとり払われてしまう。

昭和9年(1934年)に「国宝」に指定され、太平洋戦争を迎える。昭和20年(1945年)複数回の空襲により高知城下の江戸期からの貴重な町並みは全て失ってしまうが、高知城は一部被害を受けたものの奇跡的に天守や本丸御殿など15棟の建造物が残った。昭和25年(1950)文化財保護法制定により、「重要文化財」と呼称され現在に至る。

高知城の天守は、外観は4重に見えるが内部は3層6階建ての建物で、入母屋造りの屋根の上に望楼を載せている望楼型天守。

土佐国城絵図 正保元年(1644年)国立公文書館蔵 原図サイズ:東西387cm×南北258cm 一部分のみ抜粋

正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されている。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを早くから紅葉山文庫に収蔵した。幕末の同文庫の蔵書目録『増補御書籍目録』には131鋪の所蔵が記録されているが、現在、国立公文書館に63鋪の正保城絵図が所蔵されている。

Googlemap 内堀は南側のみが残り、東西の堀は埋められてしまった。その内堀内に建つ無粋なコンクリ県庁はどうにかならないものなのか。高知駅前の閑散とした場所にでも移設するというのはどうだろう。

城内にある模型は当時の様子が良く分かる。南東の方角から見た景色。当時は二の丸や三の丸にも御殿が建ち並んでいる。今は本丸御殿を残すのみ。現存する本丸御殿が残るのは川越城とここ高知城のみ。さらに天守と本丸御殿が現存しているのは唯一高知城のみ。なんと貴重なお城なんだろう。

JR高知駅前から土佐電で高知城へ向かおう。

土佐電は市内均一200円。早まって桟橋車庫前行きに乗ってしまったので、はりまや橋電停でいったん下車し、交差点を渡り、いの駅前行きに乗り換える。

はりまや橋電停で乗り換え乗り換え。

高知城前電停で土佐電を降り、プラプラ歩くこと3分ほどでお堀脇に出る。

高知城の表門の大手門から見上げると天守がそびえている。このツーショットが見られるのは、ここ高知城だけ。

大手門は石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で本瓦葺の入母屋造。門の前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっていて、三方向から攻撃を加えることができる。初代の大手門は寛文3年(1663年)に崩壊してしまうが、翌年の寛文4年(1664年)に再建され現在に至る。

大手門の前から見上げる天守。最近思うのは、高知城だけでなくどこのお城も木々が育ち過ぎている。せっかくの天守が見晴らせない。

昭和9年(1934年)に「国宝」に指定された高知城。昭和25年(1950)文化財保護法制定により、「重要文化財」となる。しかし、高知城は国宝に指定されるべきお城と思う。

 

高知は台風など雨の多い土地。そのため石垣は水はけの良い野面積みが多く組まれている。さらには、城内の排水路から流れてくる水が石垣に当たらない様に、突き出た石の樋で流し出す。

杉ノ段もしくは井戸ノ段と呼ばれた場所から三の丸の石垣を望む。杉ノ段は、藩主のお国入りや出駕の際に一族が出迎えや見送りに出向いてきた場所。石垣の上の三の丸には、かつては三ノ丸御殿が建っており、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などから構成されていた。創建当時、室内は絢爛豪華な障壁画によって装飾されていた。

鉄門跡付近から天守を望む。

この曲線が色っぽい、と思うのは自分だけだろうか。

現在は「詰門」と呼ばれる本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす二階建ての櫓門。当時は「橋廊下」と呼ばれていた。一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵で、二階は家老や中老などの詰所だった。

二の丸から天守を望む。外観4重だが内部は3層6階の望楼型天守で、最上階には廻縁高欄が付けられている。

二の丸から本丸と天守を望む。

二の丸の西側から本丸と望む。

二の丸の詰門二階が本丸への入口になっている。二の丸には藩主の居住空間である二ノ丸御殿があった。北東には家具櫓や数奇屋櫓などがあり、調度や道具類を収納していた。西隅には小天守のような三階建ての乾櫓があった。

詰門二階の家老や中老などの詰所だった場所を通り抜ける。

本丸には天守・本丸御殿・納戸蔵・廊下門・東多聞・西多聞・黒鉄門などの建造物が残っている。現存する天守と本丸御殿がツーショットで見られるのは、ここ高知城だけ。

「咸臨閣」という別称を持つ天守。

本丸御殿を懐徳館と呼ぶようになったのは明治になってから。内部は上段ノ間、二ノ間、三ノ間、四ノ間、納戸、三畳二室、雪隠、入側、板間、縁側で構成されている。今日は琴の演奏会がおこなわれるようだ。

上段ノ間の床、棚、書院附

上段ノ間の帳台構え。武者隠しとも呼ばれ、藩主に危害が及びそうな場合、ココから護衛の武士が飛び出してくる。

帳台構えの裏側は護衛する武士が隠れる部屋になっている。、

いよいよ天守へと入っていく。展示物など見ながら。

上へと登っていく。

何の扉だろうか。

城の階段はキツイもんだ。

天守の最上階は開け放たれていて、高欄というバルコニーのような部分に出られぐるっと一周できる。

青銅製の鯱を見下ろすその先には追手門が見える。

東側を望む。こう見ると高知も都市化している。

黒鉄門は本丸の南に位置し、儀式の際に藩主が出入りする門だった。

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