四國徧禮道指南でへんろ いよいよ伊予路は山ばっか その4

昨晩は宇和町卯之町(今は西予市)に在住の友人宅に泊めてもらい、久々の再開で盛り上がったあげく、寝不足状態で友人宅を出発した。卯之町駅から宇和島駅まで輪行して、昨日の続きとしたかったが、汽車の待ち時間がもったいないので卯之町から自転車で先に進んでいる。

あたり一帯田園地帯。地名は上松葉、「四國徧禮道指南」に記されている「上まつば村」はこの辺りだろうか。

シブい農家の倉がある。

和風の倉に洋風の妻飾りがかっこいい。

こちらの田んぼは稲刈りが終わっている。

国道は進まず、大江という雰囲気の残る旧宇和島街道を進む。「四國徧禮道指南」に記されている「あう江村」はこの辺りだろう。

東多田の宇和島藩東多田番所跡。封建時代に通行人の監視や罪人の追放などのため設置され、関所の機能を果たしていた。「四國徧禮道指南」には「東たゞ村 番所切手改」とだけ記されているが、通行するには庄屋か橿那寺の証明のある往来切手が必要だった。

石柱には、従是南宇和嶋藩と刻まれている。元は東多田番所近くにあったようだ。

大洲へ向かうこの先には山が立ちふさがっている。国道は鳥坂トンネルで貫いているので、楽に大洲へ行けそうだが面白くない。旧街道のへんろ道は鳥坂峠という標高470mの峠越えのルート。寝不足の体にはキツイがへんろ道を行こう。分かれ道で出会った歩き遍路の若いカップルは、悩んだすえ国道を進むと言う。自分は自転車でへんろ道を越えると言うと、たいそう心配してくれた。

寂しげなへんろ道を進んで行く。「四國徧禮道指南」に記された「とさか村」はこの辺りだろうか。

鳥坂峠の入口付近で先行して歩いているお遍路さんを発見。「四國徧禮道指南」には「うわ嶋と大ず領のさかひ過て戸坂ざか二里有 八町ほどのぼりそれよりくだる」と記されている。1町は108mくらいなので、1kmも無いくらいの上り坂、楽勝だなぁ~などとお気楽モードが発動している。

大洲藩鳥坂口留番所跡。藩政時代に人物や物資の不当な流出を防ぐため大洲藩によって建設された番所。通行するには厳しい取締りを受けていたが、お遍路さんは比較的楽に通行できたようだ。歩きお遍路さんと挨拶をしながら番所跡をマジマジと見学する。

玄関や座敷、襖、欄間など当時のものが残っているが、今は農家さんが普通に暮らしている家なので中は見学できそうにない。

さあ、鳥坂峠を登って行こう。さっき出会ったお遍路さんは、番所跡を見ているうちに先に出発して行った。自分はお遍路のカッコウをしていないので、お遍路だと思われていないようだったし、まさか自転車で峠を越えるとも思っていなかったようだ。

斜度はややキツめ、路面は荒れているし、倒木が結構ある。

林業が盛んなのか杉林が続く。少し斜度が緩くなり、自転車を漕いで登って行ける。

漕いで登ったのもつかの間、斜度がきつくなり押していく。路面には石畳が敷かれているが、その上にコケが生えていて、これが結構すべって厄介だ。

汗水たらし、心臓はバクバク、呼吸はゼーゼー、そして倒木を越え押していく。

下草がボーボー、足をとられる。

木々の隙間から進んできた宇和町が見える。少しドリンク休憩。

先に行ったお遍路さんの後ろ姿をまったく捕らえられない。まぁ自転車を押しながら登っているので、追いつけるはずもない。そういえば鳥坂峠のこの道には、クモの巣が張っていないなぁ、と今ごろ気付く。そうか、先に登っているお遍路さんがいるからクモの巣が無くなっているんだ、と心の底から感謝カンゲキ雨あられ、である。

息も絶え絶え、なんか見えてきた。どうやら峠の頂上のようだ。

真新しいベンチには、小学5年生からのうれしい応援メッセージが書かれていた。ひと休みするする~。

さあ!楽しい下り坂、へんろ道ダウンヒルのはじまりはじまり~

木々の隙間からたまに見える風景が、やたらと山深い事に若干の不安を感じる。

ガンガンに下って行く。あぁ楽しすぎる、楽しすぎて怖いくらい楽しすぎる~

下りへんろ道終了~ 下りへんろ道にハマってしまった。楽しいことはあっという間に時間が過ぎる。

ようやく先行していた歩きお遍路さんに追いついた。峠を自転車で越えてきたことにとても驚かれ、あの上り坂はどうやって来たのとか、お遍路さんなのとか、どっから来たのとか質問され、すごいねぇ一緒に写真を撮ろうと言われ、オッサン2人の自どりツーショットをお互い撮るのであった。この先も下り坂、自転車と歩きでは、もう出会うことはないだろう。

林道を爆走していく。汗をかいた体に風が心地よい。

途中にもへんろ道は残っているのでもれなく進入して行く。

へんろ道を抜けると足やリデーラーなんかに草が絡まり付いている。

愛媛は日本有数のクリの産地なのである。標高が高いのでまだこれからって感じ。

田んぼでは家族総出で稲刈りがすすむ。

大洲の北只インターが見える。この先もまだ下り坂が続く。「四國徧禮道指南」に記されている「北たゞ村」はあの辺りだろう。

伴造川と嵩富川を渡り、嵩富川沿いを進むと正面に小高い円錐状の山が見えてきた。その名も冨士山(とみすやま)といい、頂上付近はツツジ公園となっていて、季節時には山がピンクに染まる。

ようやく大洲の町へと辿り着いた。大きく湾曲した肱川には広大な河原が広がり、臥龍山荘の不老庵という茶室が見える。

石垣の上に山に張り付くように聳える古風な建物に気を引かれ寄り道する。盤泉荘とうい旧松井家の別荘で、貿易会社を経営し巨万の富を成した松井國五郎氏が、趣向を凝らしこだわって建てた屋敷だそう。

見学してみよう。案内係りのお姉さんは、あれもこれも丁寧に紹介してくれるので1時間近く滞在することとなった。この別荘を建てた主のこだわりが強く、一枚板の廊下や大きな大正ガラスなど珍しいものが溢れていた。

長い石段は大洲神社。テレビドラマの東京ラブストーリーで、カンチ(織田裕二)とリカ(鈴木保奈美)がお参りした神社だって分かる人は同年代。カンチの故郷は愛媛県大洲市の設定。

大洲の城下町は昔ながらの建物が多く残り、とても雰囲気の良い町並み。

臥龍山荘。藤堂高虎の家臣 渡辺勘兵衛の屋敷だった地を、大洲藩3代藩主の加藤泰恒が気に入り手を掛けた。やがて荒廃してしまうが、明治時代の貿易商 河内寅次郎が臥龍山荘として築いた。

国の重要文化財、茅葺で数奇屋造りの臥龍院。

知止庵越しの不老庵。

不老庵は肱川沿いの崖の上に建っていて雄大な景色が広がっている。。天井は竹網代一枚張りを船底の形にしている。

大洲と言えば、冨永松栄堂の志ぐれよっ♪

お店番のおばあちゃんに、「冨永松栄堂の志ぐれよっ!」っていうコマーシャルが忘れられなくて、子供の頃に父親の出張みやげで食べるしぐれが大好きだった事を話す。

大変喜んでくれたおばあちゃんに、「僕ちゃん、これお食べ」って言われ、ひとくち志ぐれと抹茶志ぐれをいただく。おっさんを僕ちゃんと呼んでくれる上品なおばあちゃんは、たぶん四代目の奥様だろう。甘さ控えめでもっちりした食感の志ぐれは、昔食べた大好きだった記憶のままの味だった。

「おはなはん」というNHKの朝ドラでロケ地となった場所は、おはなはん通りと呼ばれている。東京ラブストーリーでもカンチとリカが歩いていた。電柱と電線、そしてマンホールを無くすともっと風情が出る。

そして、こちらが東京ラブストーリーでリカがカンチに別れの手紙を投函したポストらしい。ポストの後ろに建っていた家は取り壊されて草ボーボーの空き地になっている。そんな事が分かる人は中年同世代。

赤煉瓦館。明治時代に大洲商業銀行の本店として建築された赤レンガの建物は、今は特産品や雑貨などを販売している。

肱川橋の向こうに大洲城が見える。あとで行ってみよう。鵜飼舟が係留されているこの河原は、東京ラブストーリーでリカが缶を蹴った場所らしい。そんな事が分かる人は、おっさんおばさん真っ只中。ちなみに柱に相合傘を彫ったカンチの出身小学校は、ここから60kmも先の久万町立久万中学校の旧校舎。これから向かう44番札所の大寶寺の近くなんだな。そしてハンカチを結びつけた海沿いの駅は、さらに40kmも離れた伊予鉄梅津寺駅。52番札所太山寺の近くなんだな。

大洲城へと向かっていると、古民家がNIPPONIA HOTELになっている。大洲は伊予の小京都と呼ばれるほど昔ながらの城下町が残っている。

大洲城の下台所。切妻造、本瓦葺の土蔵風の建造物で内部は一部が2階建てになっている。大洲城内に唯一残る蔵の建造物。

登城の前に、大洲城がかっこよく見える場所を探しウロウロしてみる。お城の北西へ向かい、肱川の土手に出ると良い角度で複合連結式による天守群が見える。明治時代まで大洲城には18棟も櫓やぐらがあったが、明治の廃城令により次々と取り壊され、ついに明治21年(1888)には天守も取り壊された。現在の天主は、平成16年(2004)に四層四階の木造により、明治時代の古写真や天守雛形という江戸時代の木組み模型など豊富な資料を基に、当時の姿を正確に復元された。

さぁ登城しよう。高欄櫓の外壁だけが下見板張でない事に違和感を覚えたが、万延元年(1860)に再建された際に、下見板張から漆喰に変更されたようだ。

左の高欄櫓は、本丸の入口に位置し北側の天守と渡櫓で繋がっている。安政4年(1857)の大地震で大破したが、万延元年(1860)に再建された。窓の外へ出るための廻縁に擬宝珠の付いた高欄がありとても珍しい。右の台所櫓も同じ地震で大破したが、安政6年(1859)に再建された。台所の機能を備えた珍しい建物で、籠城時に城兵のための台所として使用されるため1階の3分の1が土間となっており、排煙用の格子窓なども取り付けられている。

復元された天守内部は、真新しいがまさに現存するホンモノの城と同じだ。江戸時代にタイムスリップして新築の城へ行ったとしたらこんな雰囲気なんだろうなぁ。あと何十年かすれば、ホンモノの城と呼べる風合いとなるだろう。

天守に使用された木材はすべて国産材で、城郭建築の木組で造られている。

伝統工法により組まれたことがよく分かる。

大洲城天守は3方向から撮られた古い写真が残っている。この北面の写真は特に鮮明で、石垣の石の形や垂木の本数まで確認できる。

天守の最上階から北の方角を望むと、鉄橋を渡る汽車が見えた。

昔からの城下町は東の方角に見える。

本丸を見上げる場所にVMG CAFEというNIPPONIAが営む休憩場所がある。スタッフの綺麗な気の良いお姉さんから、おすすめの愛媛県産オレンジジュースをいただく。1杯500円だが2杯だと800円。お得な2杯といきたいところだが、お腹がちゃぽちゃぽになりそうなので、きよみジュース1杯だけにした。これが美味いったらありゃしない。

綺麗な気の良いお姉さんは、通勤も買い物も車に乗るので、もう長いこと自転車には乗っていないそうだ。

大洲城から大洲駅へと向かう途中で出会ったN2000系の特急宇和海。駅が近いので1両に355PSのエンジンを2機積んだディーゼルの咆哮は聴けない。

4時間近く大洲の町を観光していた。そして今回のお遍路旅はここ大洲で一旦終了する。伊予大洲駅から友人宅のある卯之町駅までJRで戻ろう。時刻表を見るとなんと30分後に発車する次の列車が運休している。その次は八幡浜止まりの鈍行列車で卯之町まで行かない。つまり卯之町行きは1時間30分待ちなのだ。恐るべしJR四国。まあ昼メシを食べてゆっくりしよう。

この後、昼メシを探して徒歩で駅前をウロツクが、中華料理屋、イタリアン、居酒屋あれど、どこのお店も開いてない。しゃーなしフジグラン大洲というショッピングセンターのフードコートでメシを食った。そしてそのまま爆スイしてしまう。